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エピソードと共に、その起源や、特徴を、ご紹介しています。意外な場所に、
意外な、お宝があるものです。画像と共に、うんちくも、お楽しみください。 

御用窯解説(中部〜関西) 

<飯田藩>〔信濃国−長野県〕
●天竜峡焼(天竜・尾林・竜峡焼)〔伊那郡竜江村尾林〕
 嘉永期、主君堀親寚(ちかしげ)が瀬戸の陶工水野儀三郎を招き、御用窯を築窯。酒器類等を焼成した。
維新後、衰微する。

<高遠藩>〔信濃国−長野県〕
●高遠焼〔伊那郡高遠〕
 維新直前、当主内藤頼寧は瀬戸の陶工加藤勝四郎を招き、築窯して御庭焼とした。白磁に瑠璃釉を施し、
盃・盃台・茶碗・湯呑等を製した。廃藩と同時に廃窯した。

<須坂藩>〔信濃国−長野県〕
●須坂御庭焼
 弘化ニ年(1845)から嘉永六年(1835)にかけて、主君堀直格は五十人扶持で吉向焼二代一郎、三代行阿を
招き、製陶を命じた。陶土は、上手物は京都、実用品は豊丘村大字園里を使用。銘は作者の号および名の
「吉向」「一郎」「行阿」、主君より拝領の「速珠」、「紅翠軒」は御庭焼用。金印・銀印の「吉向」は同家のみに
使用した。陶器・漆器・土器・楽焼があって交趾・支那風・染付・袱紗叉手・蕎麦手等を焼成した。

<松代藩>〔信濃国−長野県〕
 松代焼は、埴科郡松代の寺尾窯(文政初年創始)、天王寺山窯(文化十三年=1816創始)、代官町岩下窯
(天保十四年=1843頃創始)、荒神町窯(寺尾藩中止後、創始)の四窯より焼成された陶製品の総称である。
 主君真田幸専の文化十三年、普請奉行上村右衛門が近江国信楽の陶工を招き、天王寺山窯を築いて
御庭焼とし、上手物の茶器類を主に焼成したが、当時、家中の経済状態が悪く、役人らが私財を投じ、また、
民間から資金を募って維持に努めたが、文政初年廃窯した。
 天保十四年ごろ、当主幸貫の庇護で、藩士岩下左源太の代官町屋敷内に代官町岩下窯を築いた。このころ、
隣りの須坂領主堀直格は陶工を招致し御庭焼を始めたため、当藩でも幸貫が吉向を招き指導を受けた。
吉向の影響があって高尚風雅な京風焼物が焼成された。姥捨山の月景色を呉須で描き、高台裏まで白掛けの
ある古層部(摂津国)風小皿、主君真田家の定紋入り茶入れなど、土は赤黒色で、分子中に黒胡麻模様が
点在し、暗い寂しさをみせる。「松代焼」の刻銘がある。
 嘉永五、六年(1852、1853)ころ、須坂の御庭焼が廃止となり、吉向も信州を去るに当たり同家もまたこれを
廃止した。
●寺尾窯〔松代東寺尾村〕
 創業は寛政初年(1789)。陶工喜平次が築窯した。文化十三年(1816)、主家物産掛の家老恩田民祗指揮の
下で、喜平次窯を買収、京都の工人を招いて茶碗・日用雑器を焼成したが、数年後の文政初年廃窯され、
のち荒神町窯へと移る。

<浜松藩>〔遠江国−静岡県〕
●志戸呂(しどろ)焼
 大永期に茶壺・花瓶等が焼成されたのが創窯である。天正十六年(1588)ころ、美濃国久尻の陶工加藤
庄右衛門景忠が当地において五郎左衛門と改名して製陶に従事し、当時、浜松城主徳川家康が上覧した際、
三十石の御墨付きを拝領した。
 主君高力忠房の寛永期に小堀遠州が再興、茶器類を焼成した。享保期以降、「志戸呂」「質呂」印が全器に
使用される。
●辰之口御庭焼〔江戸辰之口〕
 天保期、幕府の老中であった主君水野忠邦は、江戸辰之口屋敷内で陶工吉郎太に楽焼器を焼造させた。

<高須藩>
 当家は尾張徳川家の分家であったが、家領は幕府より分与されている。
●角筈御庭焼(魁翠(かいすい)園焼)〔江戸角筈下屋敷内魁翠園〕
 嘉永三年(1850)十月、主君松平義建は隠居後、十二月江戸下屋敷へ移転し、同四年、瀬戸の陶工川本
友四郎貞二を招いて花虫等を絵付けた。染付磁器は滑らかな赤色味を帯び、素焼に無釉・有釉があって
万古風である。上好に赤・黒楽焼等がある。義建の手造りは「魁翠園製」印、貞二作は「魁翠園」の下に
「貞二」印がある。楽茶碗の多くは印花で「魁翠」楕円内刻印、器底に草体「魁」円印、角形「魁翠園」、
釉下染付隷書風「魁翠園製」等がある。
 以後、当主は義比・義端・義男・義生と五代継続し、維新時に廃絶した。
 弘化四年(1847)、義建は、四谷上屋敷に水道用土管を製造させて玉川の水を引いたが、これは今日の
土管製造の創始である。土管に用いた土は、尾張国内の常滑村真焼の鯉江方寿創製のものを真似て造らせた。
 元禄四年(1691)、小笠原貞信に代わって信濃国高取領より入封した当主松平義行は、尾州家二代光友の
次男であったため以後、尾州家の連技とされ、尾張国内の土を譲り受けることが可能となったのだろう。
 また、国表の魁翠園で焼成したとの説があるが、魁翠園焼は、あくまでも江戸角筈のみで焼成されたので
あって、国表にはその事実はない。
 
 <大垣藩>
●温故焼〔不破郡赤坂村〕
 高須松平家御用窯清水平七(号、温故)は、当主戸田氏正の嘉永二年(1849)に赤坂村へ移住して
御勝山焼を開窯し、のちに温故焼と改名。氏正の知るところとなって御用を命ぜられ、例年の将軍への
献上品と氏正の専用品とを製陶した。
 初期の銘印に「金生堂」「金生山」「御勝山」を使用し、平七の晩年には、その号「温故」を使用した。
いずれも楕円形を成している。

<岩村藩>〔美濃国−岐阜県〕
●駄知(だち)窯〔土岐郡駄知町〕
 窯場は古く、室町時代末期の永享八年(1436)、水野惣九郎によって開窯された。
 天保元年(1830)、当主大給松平氏は家中の経済保護のため、岩村の陶商長谷川平七をして江戸を始め
諸国へ、土瓶を専売させた。

<尾張藩>〔尾張国−愛知県〕
 御三家筆頭の尾張徳川家は、初代国主徳川義直が慶長十二年(1607)に清洲城より入封、同十五年に
名古屋城の完成をみて、名工保護政策を打ち出した。
 以前、瀬戸地方から美濃地方へ散出した加藤系の陶工のうち、特に名家である子孫を選出して、
瀬戸隣接地の赤津村へ召還し、彼らを御用御抱え陶工師として作陶に従事させた。
 一方、美濃に残留の陶工は、久尻を中心としてその付近各地において美濃焼の拡張に努力した。
●祖母懐土
 瀬戸村東南にあったウバがフトコロの地名に、あとから漢字を当てはめて呼ばせた。祖母懐は、通常、
藤四郎春慶系統の美濃焼と称されているが、これは窯名であって土を意味しない。
 尾張家では、義直のときより家中専用土として祖母懐土を選び、城内の御深井窯のみに使用した。さらに、
延宝期に二代当主光友、その私堀を禁じて、特に茶入専用土として御深井窯以外にも使用した。この土に
よって焼成された茶入は、唐物茶入に酷似して、その緻密な質は本節土よりも朱泥土に近く、生では青灰色
だが、焼くと赤色に変化するという。青脂気と赤味との両種があって、粘力に富む土は、弱火では青褐色に、
強火では青黒味になってくる。
 さらには、黄瀬戸釉法の応用による御深井青磁は「灰色の透明に緑色を帯びた水釉」といわれる釉薬に、
美しいヒビがみえる。これは恐らく千倉と称する鉄分を含む原石−本地砂−に木灰等を付加したものと
思われる。

<赤津藩>〔赤津村〕 
 天正期の初代加藤四郎左衛門景正(通称、藤四郎)から十四代目子孫仁兵衛・唐三郎・太兵衛の三兄弟の
うち、義直の慶長十五年二月五日に仁兵衛・唐三郎を、光友の万治三年(1660)に太兵衛を招致したのが、
赤津の焼物御用家筋となり、御窯屋三軒と呼ばれた。もともとこの地は藤四郎春慶が茶入を焼成した地で
あるが、他の雑器と混交製造されていった。降って義直のときはいずれも御用茶器を焼成し、主に花立・水瓶・
香炉・小皿等の仏器や、茶入・水滴・天目のような上手物、下手物としては大鉢・大皿・卸し等が製造されたが、
風雅な陶器を主としていたため、経済的な発展をみることはなかった。
 江戸中期以後は、月窓(山口孫三郎−寛政・文化)、四郎(加藤太兵衛景暉−文化・天保)、春竜(加藤
唐三郎景久−文化・嘉永)、春岱(加藤宗四郎−天保・明治)、春悦(加藤忠吉−同)らが御用を勤めた。
●曾木(そぎ)窯〔赤津村〕
 慶長十五年(1610)、義直は加藤利右衛門の孫唐三郎を美濃国土岐郡曾木村より赤津村へと移住させて
保護奨励し、築窯した。貞享期に漸暫時中絶し、寛政三年(1791)、当主宗睦は水野彦左衛門に茶碗を焼成
させて再興した。
●品野窯〔品野村〕
 加藤家八代万右衛門基範は慶長八年(1603)、可児郡大平村に移り、さらに恵那郡水上村に転じていたが、
慶長十五年、義直に品野村に召し還されて品野窯を築いた。
 また、基範の子新右衛門景重・三右衛門重光兄弟はともに義直の命で新窯を築き、景重は村西部に西窯を、
重光は南部山洞に築いて洞(ほら)窯と呼ばれた。両窯は品野における陶業の先駆である。当主宗勝の宝暦期、
京都の陶工伊兵衛は当地の伝十郎方の養子となり、粟田風のヒビ焼を焼出し、当主斉昭の文政元年(1818)
に定蔵は高麗手を製した。
 以後、陶工に品吉(加藤吉三郎−天保・嘉永)、春聴・梅助(嘉永・安政)らがあり、いずれも西窯の景重の
末裔で、製陶に従事して御用を勤めた。
●御深井窯〔名古屋城外郭御深井丸〕
 天和二年(1682)八月、義直は御深井丸蓮池の東北、瀬戸山の西山腹に御用窯を築き、慶安三年(1650)
義直の没後、光友のときに一層の完備をみた。
 城中製陶のため、従来のいわゆる主君の手慰み用御庭焼として扱われる向きもあるが、この窯はむしろ、
家中の支配下における御用窯として取り扱われる方が強く、創始以後、幕末まで数度の中断をみた、
  ・初代義直:赤津窯の陶工仁兵衛・唐三郎兄弟が主任となり、品野窯の陶工も招いて焼成された
のが御深井焼の始めであり、このときは御庭焼としている。古瀬戸風の黒褐釉を主とする。
・二代光友:御深井焼を御用窯として拡張した。明国より渡来した陶工元鬢が寛永十五年(1638)に客事として
たずさわり、同所に新たに窯を築き元鬢(げんびん)焼と呼んだ。瀬戸呉須青料を応用・創始して御深井釉等が
現われ、瀬戸青磁・水青磁を造出する。
・三代綱政:元禄初期、暫時中絶。
・十代斉朝 :文化七年(1810)、瀬戸村の庄屋唐左衛門を招き、新製染付磁器をもって再興した。
城下西郊の笹島焼に従事する陶工牧文吉・朴斎が来窯して陶製した。また、家臣正木宗三郎も製
陶にたずさわって正木焼を興した。
・十二代斉荘(なりたか):天保期
・十六代義宜:文久・慶応期には御深井最後の名工と称えられた赤津窯の春岱が製陶に従事した。
廃窯時、陶工居住地前の瀬戸御茶屋とともに取り去られた。
初期作品には「祖母懐」銘を入れ、斉朝再興以後は「御深井」印、他に「深井」「深井製」があり、さ
らに、慶応期には「賞賜」印を使用していたが、間もなく廃止された。
また、御深井釉葉形六寸皿に「笑醒」の銘を有するものがあるが、作者・年代ともに不明である。
●外(戸)山窯〔江戸外山別邸〕
 御深井焼の文脈として外山別邸の楽々園で焼成した御庭焼である。別邸名をとり楽々園焼と称する。
銘印には、四角内「楽二園製」、長方形内「楽二園」、楕円内「祖母懐」、瓢形「楽二園」、単に「楽二園」を
使用した。
・二代光友:元禄期、瀬戸の陶工加藤仁兵衛・唐三郎・太兵衛三兄弟を招き焼成させた。原土は祖母懐を
取り寄せ、上等品の砂絵は元鬢焼の安南写に端を発するという。
・四代吉通:宝永三年(1706)。六代継友以下、宗春・宗勝・宗睦・斉朝・斉温・斉荘 享保〜天保期。特に
斉荘は自らも焼成した。
・十四代慶勝:安政期。斉朝の家臣正木宗三郎の子伊織は嘉永末年にたずさわり、「竪正木」印を使用した。
●萩山焼〔城内〕
 天保期、斉荘は城の外郭深井丸のうち萩山に陶窯を築き、御庭焼として、瀬戸の陶工春岱・牧朴斎を招いて、
茶湯の造詣が深い斉荘好みの楽焼茶器類を焼造したが、天保末期に廃窯した。
 斉荘手造りの捺印は「萩山」「萩山焼」、楽焼祖母懐茶碗銘は「滝つ瀬」と底に「祖母懐」の印がある。
●東山焼〔城下東方〕
 天保期、斉荘別邸の下屋敷内に築窯した。瀬戸・赤津の陶工を招き、瀬戸風器物を焼成した。御深井焼と
同一の作風である。斉荘の手造りには、「金城主人」、他は「東山」銘を使用。斉荘一代で廃絶した。
●豊助焼〔愛知郡名古屋〕
 文政末期、藩主斉温(なりはる)の御用陶器師である四代大喜豊助は、楽焼手法による菓子盆・食器の
外面に漆を塗り、種々の蒔絵を施した豊助焼を編み出し、独特の楽焼を焼成し、これを豊助焼と称した。
天保十三年(1842)、藩主斉荘の命で土風炉を製し、斉荘の「豊楽」銀印を与えた。
常滑(とこなめ)焼
創業は、
(1)僧行基説:天平十二年(740)、聖武天皇勅命にて開窯した。
(2)菅原説:昌泰期、道真が筑紫に左遷された時期、道真の第三子英比麿が当地に隠居した折り、従者
梅太夫が土器を焼成(天神窯)、伊勢大神宮へ献納した。
(3)加藤四郎左衛門景正説:貞応二年(1223)、道元禅師に従って入宋し、陶法を学び、六年後の貞安二年に
帰朝し、当地で試陶した。
の三説があって、いずれも神器・貴族の食器類を中心に焼成された。
しかし、三説とも正確な証拠なく、未だ不詳である。以後、戦国時代においてはほとんど中絶同様の
形をみたが、藩幕体制が布かれて、義直入封後、陶工保護政策により尾張国内の民窯として保護された。
尾州家の紋章、丸中「八の字」を入れ素焼壺を献上。元禄七年(1694)、光友より尾州家窯改めがあった際、
梅干壺が上納されて以後、窯一立につき烟役として一斗五升、烟硝壺の代として四升五合を天正期に至って、
一斗三升五合の運上(税金)米を上納する習いであった。
 陶工師として特に奇人と称される赤井陶然は号を陶然軒といい、総心寺青州和尚の指導を受けて土風炉を
焼成し、尾州家の御風炉師となる。他に、南蛮風茶器を製陶、「陶然」の二字を拝領、印とした。
●尾張新製
 瀬戸の青華青磁を称し、当主斉朝の享和期に創始した。これによって従来の陶器製造を本業とし、陶器
製造を特に新製と呼んだ。瀬戸の陶工加藤吉左衛門の弟民吉が、肥前国有田で磁器焼成法を学び帰藩、
流布させた。
 文化年間、他国へ移出する場合、尾張製であることを明確にするため、木札をつけて発送した。尾州家
よりの木札は長方形で、勘定奉行よりのは丸型長方形であった。

<犬山領内>
●犬山御庭焼(丸山焼)〔丹羽郡犬山城東ノ丸山〕
宝暦期の犬山城主成瀬正泰が城下今井村で焼成した。
文化七年(1810)、城主正寿が城内東ノ丸山へ移窯し、島屋宗九郎に茶器類を主に焼成させた。天保二年
(1831)、正泰の命によって三光寺殿中に名古屋の陶工松原惣兵衛、呉須赤絵の名古屋の陶画工道平を招き、
犬山呉須を創製し、惣兵衛窯を築いた。
尾形乾山に模す犬山乾山は、花紅葉雲錦模様で、天保七年、正寿の意匠によった。
さらに正寿は同十一年に新たに庭内に小窯を築造し、御庭焼とした。裏面には必ず、「犬山」の押印がある。

<長岡藩>〔越後国−新潟県〕
●御山(おやま)焼(悠久山焼)〔長岡悠久山焼〕
 天保十四年(1843)五月、主君牧野忠政は京都の陶工六兵衛を招き製陶したが、暫時にして廃業となる。

<富山藩>〔越中国−富山県〕
 越中国は、加賀国主前田家三代利常が寛永十六年(1639)六月、幕府に嘆願し、次男利次に分与した
所領である。したがって陶器産業は、宗家前田利家が加賀国へ入封したときより主家の行政下にあったので、
分家後も主家とのつながりを切り離して記述することは不可能である。
●越中瀬戸〔新川郡瀬戸村〕
 創窯して文禄二〜慶長十六年(1593〜1611)までは加賀前田家の支配下にあり、越中瀬戸の基礎的段階
ではあるが、富山の前田家成立以後、継続期間の長い方を取り上げて、越中国内産として記述する。
●上瀬戸
 文禄二年四月、加賀国主利家の子利長は陶工彦右衛門を招いて、尾張国瀬戸に類似する陶土を藩内に
見立てさせ、越中国新川郡芦見・末ノ荘付近において発見し、築窯した。
 以後、この地を瀬戸村と称し、現在三十ヶ所余りの窯跡が発見されている。
●下瀬戸
 慶長三年(1598)七月、利家は隠居し、利長に招かれた孫市は、新たに土石を発見し、新川郡芦見に
芦見窯を築いた。同五、六年ころ、小二郎が招かれ、上末野村に小二郎窯を築いた。
●中瀬戸
 元和七年(1621)、尾張の陶工長八が招致され、長八窯が築かれた。
●新瀬戸
 寛永十七年(1640)、芦見窯の孫市の次男九左衛門が分家して、上末野釈迦堂城に新窯を築いた。
富山領内では以後、安政期に至る二百三十余年間、全盛を誇った息の長い窯場とされ、陶工らはいずれも
尾張瀬戸より招かれ、行政下には、永代年貢御免の保護を受けて陶業を成し、他の窯においての瀬戸物の
焼成は堅く禁止した。
 作風はいずれも瀬戸手法の茶器類を焼成し、ここに越中瀬戸の名が誕生した。
 維新時に藩政変革を行い、御用窯としての保護を停止し、以後、民窯となった。
●小杉焼〔射水郡小杉〕
 故志機と書かれた享和期以前にも存窯した。
 主君利幹の文化・文政期に、郡奉行高田弥八郎が陶業拡張を奨励し、官費をもって、郡の事業とし、
加賀家中より注文を受けた。
 初期の轆轤は精巧で、花瓶・水指・茶碗・燭台・日常雑器等のほか、祭器・仏器等を焼造。特に徳利の
種類が多く、立・鴨・太鼓・瓢箪・茄子等の青磁・飴釉が代表で、まれに黒・白釉がある。
 多くは無印であるが、瓢形中「小杉」「古杉」、単に「小杉」と捺印した。
●丸山焼〔婦負郡杉原村字丸山〕
 文政十二年(1829)、丸山村の甚左衛門が開窯し、のち経営困難となったが、天保期に領内の産業振興を
図った折り、当主利保は奨励金六百両を代貸して保護し、再び起窯した。
 当初、土焼に施釉したが、次第に半透明質の石焼を製出し、肥前国有田・平戸に原料を求め伊万里風を
模した。磁器・陶器とともに、赤・緑・黄の施釉の彩絵は、加賀国九谷焼に酷似する。他に染付がある。
安政五年(1858)、大地震で陶窯場は大損害を被ったため、維新ごろより次第に衰微した。
 掲載銘は徳利等の器底に赤で書かれ、「正系金府」「金府造」印の刻銘のほか、「越中丸山製」
「越中丸山焼」の刻印がある。
●千歳焼〔福光焼〕
 天保期に、尾張の陶工広瀬秀信を招き創窯した。
 当初、磁器を焼成試陶したが、土質の関係から楽焼を焼造した。

<金沢藩>〔加賀国−石川県〕
●大樋焼〔石川郡金沢大樋〕
 寛文六年(1666)、国主前田綱紀は、京都より点茶家として招致した千宗室(仙叟)に同行した陶工楽一入の
弟子長左衛門に命じ、城下北郊の大樋に築窯させた。楽焼を模して茶の湯に用いる茶碗を製陶した。
長左衛門(河内国の土師長三安敏の二十三代)は、この地名をとって大樋姓に改名、大樋焼初代が誕生した。
七代にわたって二百余年、主家の御作事方御壁所役として録仕し、茶道具を調進した。
 作風は赤楽に類似し、土質は緻密にして金気を帯びた茶褐色の飴釉は大樋独特のものであり、通称は
大樋飴釉。
 ・二代長左衛門:吉徳・宗辰御用器を製する。
 ・三代勘兵衛:重凞の御用器を製する。
 ・四代勘兵衛:天明五年(1785)七月、金谷御殿で茶碗火入土器を焼造。大梁院・斉広の御用器を製陶する。
 ・五代勘兵衛:斉泰の文政八年(1825)正月、御表、御次ならびに金谷御広敷御用命を賜わる。同十一年
正月、河北郡山上領字清水に陶器用地を貸与(明治元年、藩政改革時に返地)され、同年より毎年、
在国十二月二十九日をもって年頭大福茶碗を焼成した。
天保三年(1832)春、江戸本郷邸へ将軍家斉御成りの際、罷り上り、天目茶碗等を製造。弘化四年(1847)三月、
作事奉行御壁塗歩組となる。
 ・六代朔太郎:弘化四年十一月、父の献じた大福茶碗手伝に付き、松の御殿陶器御用を勤めた。嘉永元年
(1848)七月、御次御用、同二年四月、二の丸御広敷御用、同年十二月、金谷御殿御次御用手伝。
 ・七代道忠:安政三年(1856)年頭、大福茶碗献上。
●古蓮代寺窯〔能美郡蓮代寺村〕
 古蓮代寺と呼ばれる時期は、国主利常の慶長〜寛永期で、瓦工林忠左衛門が主命によって瓦・陶
器を焼成し、忠左衛門の子十左衛門は、利常専用茶器の焼成に当たった。窯印・印款等は無印のた
め、古九谷吸坂窯と混同されて、判別し難いものが多い。
●吸坂(すいさか)窯〔江沼郡坂村〕
 創始には諸説あるが、寛永の利常のとき、越中国瀬戸村の陶工を招き、瀬戸風茶器を焼成したとさ
れる。利常は茶の湯の造詣が深く、小堀遠州・金森宗和(飛騨国高山領主金森可童の長男)・片桐
石州(大和国小泉領主)らと親睦し、本阿弥光悦らも招いて茶碗造りに意を注いだ。遠州指導下の七宝・瓢・
桐等は遠州好みの透かし彫り意匠とされる。
 土質は非常に堅緻で、表面に無味を帯びた赤褐色の鉄釉を薄くかけ、備前風と類似するが、雅味豊富な
作風は、茶人の間で珍重された。
 利常の三男利治が、大聖寺に分家した寛永十六年(1639)以来、領内の九谷村に開窯するが、この吸坂窯が
のちの九谷焼となる要因を持ち、古九谷吸坂焼を称される。
 作風を大別すると、前記したもののほか、赤褐色のb器と灰白色胎土に赤褐色施釉の三つになる。
仁清古九谷は、厚い白施釉に、釉下の柿錆・釉上の紺青・緑・黄等の色調を持ち、模様の好み・皮骨彩描手法
から、かつて仁清を作陶した菩薩池の陶工久保次郎の作と伝えられ、のちに「みぞろ仁清」と呼ぶ。
 古九谷焼禁制後の作品は、赤褐・柿・瑠璃・青磁・鉄錆・瀬戸・高取釉等の色釉を取り混ぜて修飾し、
胎は白磁で上絵付はない。
 元禄末期ごろ、古九谷の廃絶以前、あるいは廃絶と同時期ごろまでの役七十年間、加賀前田家の
行政保護下で、陶器を始め、b器・磁器が焼成された。
●春日山窯〔河北郡山ノ上村春日山〕
 藩主斉広の文化三年(1806)当時、藩内に磁器の生産がなく、肥前国を中心に諸国より毎年輸入した。
その量は、能登・越中両国を含めた三州では三十数万枚に及び、公金流出防止と国内産業奨励のために、
町奉行津田左衛門が、京都の陶工青山木米と親交があった町年寄亀田鶴山(俳人)に諮り、木米を招いて
九月に卯辰山瓦焼の平兵衛窯を借りて試陶した。木米は、いったん帰洛し、翌年、本多貞吉を同行して再来し、
十月に春日山神社付近に国営によって製陶した。十一月、初窯を焼成したが、湿気が強く、不十分な上がりを
見たのち、数度の焼成を試みたが思うに任せず、木米は翌年帰洛した。
 製品は南京風赤絵を第一とし、仁清写・青磁・交趾写・朝鮮写などの抹茶器・煎茶器も多い。
 刻印は「金府」「木米」が多く、釘彫りの「金城帝慶山」「金城春日山製」「金府新製」「金城文化年製」「金城製」
「金城」等がある。卯辰山瓦焼の平兵衛窯において、試陶したときは、平兵衛が余技的な製陶に用いた
「金城東山」の捺印をそのまま使用した。
 結局、木米は白磁を完成しえず、事業秩序も整わないまま、早々に帰洛したのであるが、その理由は
『九谷陶器史』によると、仁清・乾山と並んで三代巨匠との誉れ高かった木米自身への待遇不満によるので
あろう。十一代治脩は、ときに、金谷御殿に隠居して、美術工芸の奨励に意を注ぎ、木米の名声を聞いて、
百万石城下の御用窯で思いのまま美術的窯芸品をなさしめることを意図したのであろうが、結果はこれに反し、
家中の目的である公金の流出防止と殖産啓発事業による大量生産のための教師的な任務にとどまった
ために不満を覚えたこと、また、文化五年(1808)正月十五日の金沢城炎上による諸事倹約のため、
御用窯が廃止され、民窯に移されるという二つの理由を挙げることができよう。
●若杉窯〔能美郡若杉村〕
 文化八年(1811)、十村役人林八兵衛が家業の瓦窯で茶碗・水指等を趣味的に焼造したが、青木木米の
去ったのちも残った春日山窯の陶工本多貞吉を招いて若杉窯を開窯した。
 文化十三年(1816)、主家郡奉行支配下となり、「若杉陶器所」と命名された。貞吉作の模様には、伊万里風を
祥瑞風とがあり、たいてい無印であるが、まれに二重角中に隷書で「若」「加陽若杉」「若杉山」の書銘がある。
 文政二年(1819)貞吉没後、肥前国の陶画工三田勇次郎が主任となった。十二月より、主家は他国よりの
陶器輸入を厳禁、一層の保護助成を促した。同五年、八兵衛は陶業のすべてを主家に譲り、主家はこれを
産物方役所の経営とした。文政十年、管理者は、八兵衛から金沢の陶商橋本屋安右衛門に代わり、特別の
保護恩典を加え経営を続行し、安右衛門は若杉姓を拝領して天保七年(1836)、金沢川南町に販売所を
設置した。同時期に陶器所が全焼したため、隣りの八幡村に窯場を移し、製品を八幡焼と称した。維新時に
藩の保護を離れた。
 若杉窯の作品は産業奨励が目的の、いわゆる量産法式であるから、日用雑器を中心に、皿・鉢・徳利等の、
貫入が多い卵黄色磁胎で、伊万里・安南・古九谷写等の染付・赤絵が多く、色彩の鮮麗さをみせる。特に
伊万里風錦手は、加賀伊万里と呼ばれ、大体無印が多いが、長角中に、「勇」「勇二」の書銘のものが
まれにあり、源右衛門作古九谷写は、角中に、「福」銘を付し、書体は真・行が多い。
●小野窯〔能美郡小野村〕
 創窯に諸説あるが、ここでは『九谷陶磁史』の記載を採り上げる。
 小野村の豪農藪六右衛門、若杉窯の貞吉に陶法を学び、貞吉が文政二年(1819)に没したのち、当地に
五月、開窯した。当初失敗に終わったが、天保元年(1830)、郡内鍋谷村に良質の磁土を発見し、同五年、
主家郡奉行の保護を得て築窯した。同十二年(1841)隣村一針の柄野善太夫は主命により小野窯を譲り受け、
青華、赤・黒描き絵付け・色絵に金粉を混ぜたもの等を焼成し、製品すべてに「小野」「オノ」の書款がある。
●梨谷焼
 当主斉泰の天保のころ、羽咋(はくい)郡梨谷小山村の西性寺、鹿島郡井田村の明伝寺が主家の許可を
受けて共同製窯を興し、楽焼・土焼類を焼成した。絵付には寺井村の九谷庄三が当たった。
●木津窯〔河北郡木津〕
 越中国久珂郡広瀬村字阪本の星場山で陶業に従事していた土谷一光(横萩錦三郎)は、文久二年(1862)、
当主斉泰の懇望により招かれ、同地の豪家室本家に、京都の陶工数名とともに御用窯を築かせ、木津焼に
従事した。皿・鉢・火鉢・行灯・皿等の雑器類を主にして、京都粟田焼と判別がつけ難い。
 廃藩時に廃窯した。
●卯辰山焼〔城東卯辰山〕
 慶応三年(1867)、当主慶寧は、家中の物産集会所を介して山麓粒谷町に新窯を開設した。
 「卯辰」「卯たつ」の刻印があるものは、平兵衛窯において焼成されたものである。

<大聖寺藩>〔加賀国−石川県〕
九谷焼
 製作当初においては九谷焼の名称はなく、元禄期の手習本『三州名物往来』(三州とは能登・越中・
加賀をいう)に、「大聖寺焼染付」と記されたのが、加賀国産の磁器名が文書に見える最初のものであり、
後世、「藍古九谷」と呼ばれるものに相当するようである。降って『茇憩紀聞』(塚谷沢右衛門著)に、初めて
九谷焼の名を見ることができる。
 元来、九谷焼という名称は、他国で、各地における地名を名付けた例と同じく、その産地名をとって焼名と
したのであるが、九谷村で焼成されたのは、大聖寺前田家成立時期より元禄七年(1694)ころまでの
三十数年間と、文化七年(1810)より吉田屋窯が山代越中谷に移窯するまでの二、三年間のみで、
それ以外は原料さえも採土しない状態でありながら、名前だけが知れわたるに至った。
 元禄期までを古九谷、吉田屋窯以後を九谷焼と称え、以後、宮本屋窯・永楽窯が起窯されるまで、
その窯の製品を九谷焼と呼んではいるものの、銘印「九谷」を見ることは至極まれである。さらに、同時期に
開窯する若杉・民山・春日山・小野の各窯にも「九谷」の名で呼ぶことはまったく皆無であった。
 『本朝陶器攷證』には、山代窯は宮本屋窯のときより印を押したとあるが、類を見ることはまれである。
 慶応二年(1666)、永楽和全が山代に来り、「於九谷永楽」印を用い始めてから、「於九谷呉山造」
「於九谷万亀造」「九谷寿楽」「九谷旭山」「九谷庄三」「九谷久録」「九谷吉造」等があり、山代・大聖寺・金沢
および能美郡各地において産する焼物すべてに「九谷○○」と印するようになった。
 その理由には二説ある。
 (1)和全が山代へ来て磁器焼成を願い、大部分は能美郡の各所より採土し、それを「九谷」と称え始め、
加賀国内の窯で同一原土を使用したため、金沢も含めて一括されるようになった。
 (2)山代窯−九谷窯−は、若杉窯の陶工によって開窯され、若杉窯は春日山の後継ともみられるため、
源流は金沢であり、能美郡を経て江沼郡内に及んだと推察する。
 当家の分立は寛永十六年(1639)であり、それ以前は、加賀国領であった。連枝の立地上から、個々の窯を
分析するのは困難であるから、金沢藩と合わせて参照していただきたい。
 ただし、「古九谷」が大聖寺前田家のことであったことは動かない。
●古九谷
 日本最初の磁器焼成地の一つに数えられ、肥前国有田の酒井田柿右衛門、京都の野々村仁清とともに、
日本彩画陶器の三源流と称されている。
 寛永十六年(1629)加賀国主前田利常の三男利治が、大聖寺に分家した当時より、父利治の意を継ぎ、
家臣の後藤才次郎定次・田村権左衛門らを配して、領内の吸坂村や九谷村を中心として諸所に陶窯を築き、
茶器類を作った。
 ちょうどそのころ、肥前国佐賀領内の有田では、まさしく日本で最初の堅焼−磁器−期に当たり、定次の子
忠清を有田に派遣し、磁器製作の探索を企じたが、佐賀領内の製陶に対する秘密が堅く保護されていて、
窺知することができず、万策尽きたが、たまたま、明朝よりの亡命陶工に出会ったのを幸いに、数名を連れ帰り、
寛文初期に九谷村で築窯した。
 主家の保護が厚く、産業の第一として大規模に大量生産を行うが、加賀前田家の連枝である大聖寺前田家は、
本家をも含めると、日本最大の大家であったため、幕府の隠密、あるいは佐賀鍋島家の猜疑も加わり、
元禄七年(1694)ころ、やむなくすべての窯を廃することとなる。
 以後、約百余年間、加賀国では大樋焼が当主の茶道具を調進するだけにとどまる結果となり、日常の陶器は、
肥前国から移入して賄った。後世、焼物を総称して「からつもの」と称えられるのもこれによる。
 なお、『陶器大辞典』巻二の中に、九谷焼について年代順に窯名が列記され、その沿革が記載されている
ので引用させていただき、詳細をその都度加味していきたい。
 また、富山・金沢両藩を合わせて参照されたい。 
・文禄二年(1593) 前田利長が、越中各地にて製陶を試みた。
・慶長五年(1600) 越中瀬戸が興る。(富山藩参照)
・寛永三年(1626) 前田利常は、このころから吸坂焼および古蓮代寺焼を造らせた。(金沢藩参照)
・同十六年      国主利常が、三男利治を大聖寺に分家させた。
・天保四年(1647) 九谷焼で磁石が発見された。
・明暦元年(1655) 田村権左右衛門が、九谷村に開窯。
・万治元年(1658) 後藤才次郎忠清は、肥前国へ磁器焼成の手法を学びに赴く。
・寛文六年(1666) 忠清は、明人の陶工を伴って帰国し、九谷村に製磁を興す。加賀本国に、大樋焼が興る。
・延宝二年(1647) 林村に藤田吉兵衛らが陶窯を開き、久隅守景が絵付をする。
・元禄七年(1694) 古九谷を廃絶する。
・正徳四年(1714) 『加能越三河山川記』に、明暦記に前田利治、九谷村を製陶せしめとの記事を見出す。
・宝暦三年(1753) この年に刊行された『国事昌披問答』に、磁器の生産を施行するとの記事がある。
・寛政七年(1795) 山本与興が加賀楽焼を創業する。
・享和七年(1802) 九谷焼が名称として初めて『茇憩紀聞』に記される。
・文化二年(1805) 亀田鶴山より青木木米に金沢入りを勧請し、木米は加賀前田家に仕える。(金沢
藩参照)
・同三年 木米は、卯辰山にて製陶を試みる。(同)
・同四年 木米は、春日山に開窯して、製陶に従事する。(同)
・同五年 木米は、京都に帰る。のち松田平四郎ら、春日山窯を継続。(同)
・同八年 林八兵衛の経営下で本多貞吉が若杉窯を創始。貞吉は六兵衛山に磁鉱を発見。(同)
・同十三年 若杉窯を加賀前田家の郡奉行所の支配下に属させ、若杉陶器所と称する。(同)
・同十四年 三田勇次郎、若杉窯に来窯し従事する。(同)
・文政二年(1819) 貞吉没。藪六右衛門が小野窯を築く。(同)
・同三年 若杉陶器所を林八兵衛より譲り受け、加賀国産物方役所の経営とする。(同)
・同四年 春日山窯廃絶。(同)
・同五年 粟生屋(あおや)源右衛門、小松に陶窯を開き、小松焼と称する。当主利之および家臣の用
命が多く、楽焼茶器を主体とし、硯箱・炉縁・卓子・長板・箪笥等の木工品そのままの形態のものを、素
焼きを強くし、陶釉を弱くして焼成する。一見、和蘭陀の地肌に似てその上に白絵土で化粧土を施し、
絵呉須で描き、青・緑・紫・黄・褐色等に彩る。
・同七年 豊田伝右衛門の屋号をもって吉田屋窯と称し、以後、九谷焼と呼ばれるようになる。しかし、
当地はその土地柄があまりにも不便なため、
・同八年 九谷村旧跡地を閉窯する。
・同九年 山代越中谷へ移窯。その製陶品は、若杉窯と同様に日用品生産を目的とし、徳利・鉢・手
炉・燭台・香炉・茶碗のほか、摺鉢・土瓶等の台所用品まで製した。銘印には古九谷同様、角福銘が
多く、大部分の作品に記されている。
なお、このころ(また、同八年説あり)に武田秀平、春日山に民山窯を興す。
・同十年 若杉陶器所を橋本屋安右衛門の経営に移す。吉田屋窯伝右衛門が没し、続いて五代・六
代も没して家運は次第に傾き、天保二年(1831)に廃窯する。
・天保元年(1830) 藪六右衛門が鍋谷に磁鉱を発見し、小野窯を起窯する。(金沢藩参照)
・同四年 橋本屋安右衛門が、若杉の姓を許される。松屋菊三郎、北市屋平吉の両名が小松焼に従事する。
・同五年 小野窯を加賀国郡役所の支配化に置く。(金沢藩参照)
・同六年 文政六年、京都水越与三兵衛に学んだ樋屋伊三郎は、佐野に陶画を興す。吉田屋窯の支配人
宮本屋理右衛門が、吉田屋窯の廃絶を惜しみ、宮本屋窯興す。主工飯田屋八郎右衛門が中心となり、
絵付に主力を注ぎ、赤絵細描の優品を焼成し、この窯の製陶器を赤九谷の八郎手・飯田屋と呼んでいる。
ちょうどそのころは、南画の最隆盛期でもあり、そのために題材も唐の人物を中心とし、赤の細密描法
を巧みに使用、優れた効果を見せている。さらに、金粉を施す精美な赤絵金襴手や色絵を着画したものも
見られ、鉢・徳利等の日用品がその主流をなし、銘印は角福が多く、末期には長方形中に「九谷」と書銘される。
弘化二年(1845)に宇右衛門が没し、次いで八郎右衛門が嘉永五年(1852)に没したことで、その中
心人物を失い、間もなく廃窯となる。
・同七年 若杉窯の諸建物が火災に罹り、隣村八幡に移窯、八幡焼の名が起こる。(金沢藩参照)
・同十二年 小野窯を一針村善太夫の経営に移す。(同)寺井庄、三寺井に絵付業が創始される。
(同梨谷焼参照)
・弘化三年(1846) 天保十年、京都尾形周平に師事したのち帰国した松屋菊三郎が、能美・江沼両
郡各所に製陶を試みる。
・同四年 加賀前田家で寛永三年に開窯し元禄初期に廃窯となった蓮代寺窯を、松屋菊三郎が再
興、蓮代寺窯の名が再び見られるようになる。
・寛永元年(1848) このころ、松山に大聖寺前田家の窯が築かれ、松山窯の名を称する。松山村在住
の山本彦右衛門が、主命で、小松窯の粟生屋源右衛門らを招致して、九谷村の旧地および吸坂村等
から原料を採土、主家の贈答品を製陶させた。赤を使用しない青九谷四彩物で、緑は黄味が多く、紫
はやや赤味がかかっている。
文久末期、主家の保護を離れ、民窯と化した。
・同四年 加賀国金沢の辰巳屋小兵衛が熊走山に陶窯を興す。
・安政三年(1856) 一針村善太夫より小野窯の経営を高山吉右衛門に譲る。
・同五年 中川源左衛門が佐野窯を開窯する。
・文久元年(1861) 加賀国木津に藩窯木津窯が築かれる。(金沢藩参照)
・同二年 九谷庄三、五国寺松谷に磁器を発見する。原呉山、鶯谷に楽焼を始める。
・同三年 松屋菊三郎、青九谷の完成をみる。
・元冶元年(1864) 山代窯を大聖寺前田家物産方役所の支配下に置く。
・慶応二年(1866) 安政二年、当主利義没後、物産会所は九谷陶業の停滞に期するところがあっ
て、山代町の三藤次部と藤懸八十城両名に命じ、山代で九谷窯の復興を奨励、当主利鬯の許可
を得て、資金を貸し与えて保護した。両名は京都より永楽和全招請の嘆願を出し、公許を得て、
和全と西村宗三郎(和全義弟)の一族を招き、山代窯に永楽窯を築く。当初は、伊賀・南蛮・朝鮮・
唐津写等を焼造していたが、のちに京風な金襴手・赤呉須・万暦・安南風・絵高麗染付等の焼成
に至った。「於 九谷 永楽造」と染付書、「於春日山善五郎造」「春日山」があるが、銘中の春日
山は山代の春日山を指し、金沢の春日山窯とは関係はない。
家中との三年間契約が終わり、一応、永楽窯の名は廃される。
・同三年 中小路七蔵、平床窯を開く。卯辰山を開拓、産物集会所の中に陶窯が築かれる。(金沢
藩参照)
・明治元年(1868) 大聖寺藩は、商法局を京都・大坂に設け、浅井幸八らが大坂で製陶する。

以上が、大聖寺前田家成立期より廃藩に至るまで、九谷焼と呼称される陶窯の略年譜である。
御用窯として明確なのは、松山窯のみであるが、そのほか民窯であっても

<菰野藩>〔伊勢国・近江国−三重県・滋賀県〕
●菰山(こもやま)焼〔三重郡菰野村湯ノ出〕
 弘化期、菰野村の住人土井市蔵が、領内物産奨励のため、湯ノ山に築窯し、当主土方雄嘉へ献上して、
菰山焼の名を拝領した。のち同村字南瀬古へ移窯、主として茶器類を焼成した。銘は「菰山」、市蔵の号に
因んで「穆々斎」の印もある。

<津藩(安濃津藩)>〔伊勢国−三重県〕
伊賀焼〔阿山郡丸住村〕
 伊賀焼の歴史は古く、建武期、阿山郡丸住村の丸住窯が創始である。
 中古以前、この地が近江国楽焼に接近していて、砂器の一種を産し、花崗岩石系の原料と技術等が
信楽焼に酷似したために、兄弟窯ともいわれた。元来、粗雑な農具を焼成していたのに端を発する。
現在、茶人の間で花入。水指等として珍重される素焼の種壺・種浸し壺、あるいは「旅枕」と称された豆入等は
その代表である。
 茶器として焼成されたのは、天正期末、国主筒井定次(順慶の子)の筒井伊賀を創始とする。
主君藤堂高虎の寛永十二年(1635)、京都の陶工孫兵衛・伝蔵を招き、好みの茶器を焼造し、
これを藤堂伊賀と称する。同時に、彼らが焼成した作品が萩窯に酷似するため、伊賀萩の名もある。
 さらに、寛永期に小堀遠州が工人を指揮し、古風な茶器を焼成した。漉土に特色をもち、遠州伊賀と呼ぶ。
これら藤堂・遠州両伊賀によって再興され、いずれも人工的施釉・ビードロと呼ばれる萌黄釉と、藤堂伊賀に
おける化粧掛け白焼に藍絵が代表である。茶入の焼造は利休以後で、黒釉・飴釉を施し、茶碗焼成は
遠州のころより始まった。いずれも呂宗、南蛮から刺激を受けた。
 中国銅器の形を模したものには、伊賀独特の青釉と登窯によるコゲによって美しい変化がある。
 室町末期から江戸初期までが全盛期といわれ、元禄十二年(1699)、藤堂家三代高久の没後はまったく
振るわず、日常雑器を焼成するのみという沈滞ぶりであった。
 宝暦期、当主高嶷(たかさど)が自ら工人を指導してやや復活するが、高嶷の没後、再び不振となり、
以降廃藩まで名のみにとどまった。
●安東焼〔安濃郡安東村愛宕山〕
 古くは安濃津焼と呼んだ御用窯である。
 古安東は寛保初年、当主高豊が桑名の万古焼の沼波弄山の陶工端牙を招致し、家士服部十太夫
(十左衛門)の支配下で開窯した。万古焼系統を焼成し、家中の産業促進のために江戸支店も設置した。
 土そのものに黄白と鼠の二色を使い分け、全釉を施して焼き締め、上に絵付する南蛮風を特色とする。
写生・更紗・描画風の安東赤絵と、装飾的に緑・黄・紫・青色等を付加したものがある。さらに素地上の
施釉法には、@多少の素地を残す手法、A片方に焼締めの素地を残す片身変わり、B絵体に施釉し、
その下半分に化粧を施すもの、など三種がある。精巧な轆轤でないため、一体に厚造りで日常品を主とし、
「安東」と楷書・草書の両印を有する。
 当主高嶷の享和二年(1802)、一時廃絶した。寛永期、当主高献が陶工倉田久八に再興させてから、
以後、再興安東と称した。楷書で「安東」の印があるが、古安東とは書体が異なる。
付:甲賀郡朝宮村、慶長期、肥後国の陶工高原藤兵衛が焼成した窯を当主高嶷の寛政期、上朝宮の
辻本辰弥が再興した高原焼は、細かい貫入があり、唐草・草花の淡彩を施し、胴に菊の御紋や葵の紋を描き、
京都御所・将軍家へ献上したと伝えられているが、主家との関係は不明である。
 しかし、いずれも行政下に、何人かの手を経て献上されたと思われる。

<膳所(ぜぜ)藩>〔近江国−滋賀県〕
●膳所焼
 当主菅沼定芳は元和八年(1622)、瀬田に築窯して瀬田焼を興し、茶器類を製し、瀬田織部の名がある。
本阿弥光悦との親交も厚く、光悦好みを焼成した。これを膳所光悦と称して膳所焼の全身とされ、膳所焼の
一つに数えられる。
 膳所焼は寛永期中、当主石川忠総が茶湯師匠小堀遠州の指導下に瀬田焼を継続し、抹茶器を焼成。
灰白土茶入に柿色釉を掛けるのは春慶作風に類似し、遠州好みであって、茶褐色素地に黒施釉は丹波焼・
高取焼にも似ている。慶安四年(1651)、忠総の伊勢国亀山移封後は衰微した。
 作品は優れ、諸家が所望したが、経済的には振わず、かえって茶湯方に珍重がられ、天明期、
当主本多康完が御用窯として茶臼山南雀ヶ谷に移窯し、雀谷焼を製し、当主家融は京都の陶工永楽保全を
招き製陶した。以後、幕末まで続いた。

<大溝藩>〔近江国−滋賀県〕
●音羽焼〔高島郡大溝〕
 文化十一年(1814)、当主分部光寧は高橋道八系の門人を招き、御用達茶人杉山吉右衛門によって
創窯された。文政七年(1824)、閉窯。土中に信楽のような小砂を含み、釉は仁清釉薬が異変したように
赤色が加わり、底に無釉で「音羽焼」の銘印がある。

<彦根藩>〔近江国−滋賀県〕
●楽々園御庭焼〔彦根城別邸楽々園〕
 当主井伊直亮の文化・文政期以後、別邸に槻殿を新築の際、欄間に「楽々」の二字を透かし彫りした
ことから名付けた。
 交趾写が多く、「楽々亭玉作」の銘印は、直亮手造り染付寿字香合の箱書に、直亮の養子直弼が記す。
 安政二年(1855)、当主直弼が湖東焼の振興を図った折り、瀬戸素仙堂に学んだ尾張の陶工五郎と、
安政四年八月三日から元治元年(1864)にかけて湖東焼に従事した陶工千介の両名を御庭焼に召し抱え、
焼成した。
●絹屋窯
 湖東焼の前身で、文政十二年(1829)十月、絹屋半兵衛が城南晒屋に窯を興した。天保元年(1830)、
当主直中に献上し、以後、用命を受けた。同年七月、佐和山麓古沢村に移窯し、「沢山初製」の銘は当地の
初期製品である。肥前有田の陶工を招き、彦根船町在住の喜平・喜三郎親子、袋町佐平らが焼成に当たった。
赤絵・染付を製出した無銘が多いが、「沢山」、瓢内に「湖東」銘印のものもある。天保十三年九月、
経営不振のため家老小野田小一郎より窯場の上納を命ぜられ、製造器具・家屋・陶土採掘所等一切を
献納して、湖東焼時代へと移る。
●湖東焼
 天保三年九月から文久二年八月まで、十四代直亮・十五代直弼・十六代直憲の一代にわたった御用窯で、
俗に殿窯・手窯と称する。

・直亮時代(天保十三年九月−嘉永三年十月)
 諸侯の間の贈答に奢侈(しゃし)を極めたのを機に、家中の物産として天保十三年九月、古沢村の絹屋窯を
上納させ、殿窯を創始した。
 窯元の経済事情が悪いにもかかわらず、染付を主体に陶器・青磁・赤絵等を焼成し、御留焼として販売を
禁じた。染付より華美なものを好み、陶工幸斎・鳴鳳をもって錦手・金襴手等の精巧絢爛な作が多い。
 弘化年間に祥瑞の画風・十六羅漢・竹林七賢人・竜・孔雀等は、加賀国の画工村井勘介を御抱えとして
描写させ、袋物・角物・型物・彫物等の煎茶器・抹茶器・床飾・文房具・火鉢類・飲食器・雑品類を製出した。
銘印は「湖東」の二字主にして、他に居城の別称「金亀(こぎ)山」を取り、金亀山製、茶碗山が城東に
あるため「金亀山東」「金亀城東」、他に「淡海彦城」「湖」がある。
・直弼時代(嘉永三年十一月−安政七年三月)
 窯場拡張に努め、風流なお殿様にふさわしく新たに楽焼を工夫し、素地に対しても自己開発を促進した。
  兎角青ミ立候随分白う上り候う         
  下地白う候得ば、赤絵も又引立申事にて
 直亮時代は青味が多く、直弼時代は青味が少なく、作品の分岐点は嘉永三年(1850)と明確である。
釉薬は硝子艶消しのように、またきらきらとしたものが優良品。赤絵で素地の大部分が純白で、高台内・
器底。蓋裏身等、青味釉を掛ける。
 絵付は、藩内の文人韻士による文人画をもって施し、長崎派の画風、円山四条派の写生的、北斎風の
浮世絵に西洋風描写を加え、陶画工は、嘉永期の松之介、安政期の勘兵衛が代表である。呉須物に
唐美濃・瀬戸など三、四十種がある。茶碗山では、
   磁器−石焼 本焼−石物 
   陶器−土焼−土物
と区分し、日常雑器・茶器類・皿・鉢・花瓶などを焼成した。銘は「湖東」のみに限定し、亀甲形内と丸味ある
二重小判型内にいずれも隷書で記された。
・直憲時代(万延元年四月−文久二年閏八月)
 直弼が安政七年(1860)三月、江戸桜田門外の変で没したのち、同十月までは事業は休止したが、
十一月に再開窯した。
 文久元年(1861)十二月に和宮御婚儀の御祝儀の使者として上京の内命を受け、松皮付井筒形花瓶を
公卿・諸家へ贈答した。文久二年十一月、幕府の政変で十万石減知、二十万石とされ、家中の経済は
思うに任せず、窯場は職人達へ払い下げ、二十一年間にわたる御用窯湖東焼もここに終わりを告げた。

●円山湖東焼〔青波村大字芦川村円山〕
 湖東焼の後窯。明治二年、藩知事に任命された直憲が御用窯湖東焼の再興として開始し、原料・製品は
湖東焼時代と同様である。同四年七月、廃藩と同時に廃窯となる。

付:なお、主君の用命を受けた個人窯に以下のものがある。
●久平焼〔佐和山〕
 文政・天保期、瀬戸の陶工久平が開窯。銘は「久平」「古城」「湖東久平」の刻印があり、日常雑
器・茶器・花瓶等を焼成した。
●文助焼〔佐和山〕
 久平没後、美濃国の文助が久平焼を受け継ぎ、敏満寺土と里根土に、黄・黒・柿・緑の釉を用
い、数々の模倣品と日常品の他に茶器類を焼成した。小杉印「文助」の銘がある。主命で日光代
参の進物燈篭も造った。
付:亀七焼(安政四年開窯)
  満寺焼(安政六年−幕末存窯)
  山口湖東焼(文久二年開窯)
  長浜湖東焼(明治二年開窯)
など「湖東」銘の印を使用したものもあるが、御用窯湖東焼との関係の確証はない。しかし、こ
れらの窯に携わった陶工達は御用窯時代、主命を受けて作陶に従事した者が多い。
 さらに安政三年(1858)、主家の許可を得て、素地に湖東焼を用いて赤絵の作製に当たった窯に、
湖東床山(しょうざん)・湖東赤水(せきすい)がある。

<郡山藩>〔大和国−奈良県〕
●堯山(ぎょうざん)焼
 主君柳沢保光(堯山)の御庭焼。楽焼を試みて保光が焼成、茶器に「堯山」印を用いる。
●赤膚焼(添下郡五条村)
 天正期、国主大和大納言秀長が尾張国の陶工与九郎を招き開窯を命じた。正保期、当主本多政勝のとき、
仁清が訪れて開窯したと伝えられる。
 寛政末年、当主柳沢保光は御用窯とした。保光没後、一時衰微するが、当主保秦の天保期に、郡山在住の
数奇者奥田木白は陶工治兵衛をもって仁清写等、写物を焼成し再興した。
 長門国の松本萩に類似した黒点釉を施した酒器・食器を製した。「木白」「赤膚山」印、勾玉形に「赤ハタ」
凹印は保光より拝領した。

<和歌山藩>〔紀伊国−和歌山県〕
●西ノ丸御庭焼〔城西西ノ丸御多門〕
 享保〜弘化年間、国主徳川宗直・宗将(むねのぶ)・重倫(しげのり)・治貞・治賢(はるとみ)・斉順(なりゆき)
の六代、百三十年間継続した。弘化三年(1846)、斉順没後、廃窯した。
 宗直の享保期、京都の陶工青木木米・楽家六代左入らが時折り招かれ焼成、以降、楽家は代代御用命を
受け、治賢の文政期以前、当窯のみ存し、必要に応じ茶器類を陶製した。代々国主自らの手造りで、
無銘印が多く、箱書に「御手作」とした。葵紋、「清寧軒」銘印は斉順期のもの。
●偕楽園焼〔海草郡雑賀村別邸西浜御殿〕
 御庭焼も多数あるなかで、国主の偕楽園焼は特に有名である。単に御庭焼を称えるのは、この偕楽園焼を
指した。
 文政元年(1818)十一月から安政二年(1855)まで存窯した。治賢は多芸多才にして茶道にも造詣が深く
陶器趣味もあり、文政七年、斉順に譲世して隠居ののち、西浜御殿内に同十年、京都の陶工西村保全を
招き(天保十二年まで在住)、改窯した。
 治賢より「永楽」の銀印、「河濱支流」の金印(裏は西園=別邸名)の印を賜った。交趾写の中国三彩を
焼成したものには「偕楽園製」の銘。治賢の手造りには「葵紋」の印のみを押す。
 斉順の天保七年(1836)、楽焼脇窯二代弥助が来園し赤楽を焼成して斉順より「久楽」の印を賜る。
 茶器類のほか、床飾品・文具類・煎茶器・皿・植木鉢等があるが、御留焼のため売買を禁じた。
●清寧軒(せいねいけん)焼〔城下湊御殿〕
 天保初期〜弘化初期までつづく。斉順の父治賢が偕楽園と並んで楽家十代旦入を招き焼成した。楽焼を
主とし、まれに磁器花生等が見受けられたが、これは高松窯あるいは男山窯で焼造しえた清寧軒御用品で
ある。旦入は「楽」印を拝領したほか、「清寧」「清寧軒」の捺印、葵紋の捺印も有し、さらに吸江斉宗左・
住山揚甫らが箱書した。
●江戸清寧軒焼〔江戸大崎下屋敷〕
 斉順が、江戸での手慰みに焼成したが、作品は稀少である。
●善明寺焼〔日高郡島村〕
 宗直の享保期、善明寺六代住職玄了が創窯し、数年間、御用御焼物として主家に献上した。玄了一代で廃窯。
 抹茶器を重点に、青磁風花器・水指・茶碗等備前焼に類似し、多くは無銘、まれに小形印「善明寺」
「日高」の印がある。
●瑞芝(ずいし)焼)(滅法谷・名草・紀城・和歌山焼
 国内の陶業隆盛期は、治賢の寛政元年〜文化七年(1789〜1810)まで三十数年間、絶大な庇護を
もって発展した。
 高松・男山の両窯の築窯以前、享和元年(1801)、府下鈴丸の岡崎屋阪上十次郎は、号を瑞芝といい、
民間の御用窯である。治賢より「瑞芝堂」の書額を拝領してからは瑞芝焼といった。
 青磁を第一として文趾写・染付・楽・上絵等の煎茶器・会席用具・皿・花生・白泥湯沸・焜炉等の雑器がある。
現在、判明できる銘款は、
 瑞芝・鈴丸・名草・化物堂・紀城・和歌山・南紀
の七種。私物焜炉横四分・縦六分大に「白鳥関」、三字不明の銘印の下に小判形で「瑞芝」捺印と「化物堂」の
印が二種、琉球製植木鉢写に「紀城化物堂製」の印銘、交趾写・青磁釉品に「紀城」「紀城の産」、茶漉しに
「和歌山」「南紀」の書銘。開窯時よりたびたび来窯した木米の拝領印は「古器観」「停雲楼」である。
●高松窯〔和歌浦街道路〕
 斉順の文政十年(1827)、崎山利兵衛が男山開窯に先立って試陶。 
 抹茶器類に和歌浦の名所を描く染付・色絵等がある。書銘印。
●男山(おやま)窯〔有田郡広村八幡宮隣〕
 崎山利兵衛が高松窯の旧地に開窯した。文政十年(1827)十二月二十五日に許可を得た半民半官窯で、
伊万里焼を模し、また染付に象嵌風な亀甲・雷紋等を施した。色絵物は家中御用のみ。天保元年(1830)に
中絶した。
 嘉永三年(1850)、慶福寺代に復興し、染付書銘に「南紀男山」がある。
  新宮領内
●三楽園御庭焼〔江戸原町邸内〕
 紀伊家付家老で新宮城主水野忠幹が慶応四年(1868)、立藩する以前、安政期に城主忠央が江戸三楽園
邸内に築窯した。永楽風交趾写に、邸号「三楽園」を捺印した。
 紀伊家のそれに模して築窯されたためか、偕楽園製の一部と認定される。 
●大福山焼(直川(のうかわ)焼)〔直川村大福山本恵寺〕
 弘化・嘉永年間、城主忠央が領地発展策として製陶業を計画し、安政四年(1857)、平野屋儀兵衛が京都の
陶工多数を招いて築窯した。
 磁器・陶器ともに偕楽園焼に模した交趾釉で、紫・浅黄の流れ釉が多い。献上品に、牡丹に獅子の染付が
ある。他に花生・置物・日常雑器を焼成した。銘印は瓢形中に「大福山」、八角中に「南紀大福山」である。

<高槻藩>〔摂津国−大阪府〕
●高槻焼
 嘉永五年(1852)五月、当主長井直輝が、京都の永楽善五郎保全を招いて開窯した。すべて祥
瑞風茶器を焼成した。器物高台内に小判形に「高槻」印、「高槻所製」と箱書に書銘がある。ただ
し、保全は同年九月に当地を去った。

<三田(さんだ)藩>〔摂津国−兵庫県〕
●三田焼〔有馬郡三田天狗ヶ鼻〕
寛政初期、三田の豪商神田惣兵衛が私財を投じ、陶工内田忠兵衛が青磁を焼成し、俗に三田
青磁という。保護されて代々九鬼家の御用達となった。
 
文化・文政期は最盛で、青磁は天竜寺手調。また、香炉、茶器、花器・皿・文具・置物(人物・動物)等の
呉須手写も製した。

付:天保八〜十年(1837〜39)、当主隆国に招かれた加賀国の陶画工松や菊三郎が御庭焼に携わったとの
記録(『九谷陶磁史』)があるが、詳細不明である。

<篠山藩>〔丹波国−兵庫県〕
●篠山焼(王地山焼)〔城外王地山〕
 文政初年、当主青山忠裕が、摂津国の三田窯で三田青磁を焼成した神田宗兵衛を招き、御用窯として
築窯させた。三田青磁より色沢の淡い青磁は、特に篠山青磁と呼ばれ、他に赤絵・染付等を焼成した。

<出石藩>〔但馬国−兵庫県〕
●高岡焼
 当主仙石久利が安政期に高岡源蔵を招き、城中に御庭焼を開窯した。陶器を焼成し、窯印「閑亭」である。
●出石(いずし)焼
 明和元年(1764)、出石郡細見村字桜尾に土焼窯を築いたのが始まりである。
 寛政元年(1789)、二八屋珍左衛門は、当主仙石久道より十五両の旅費を借り受けて、肥前有田へ赴いて
帰国したが、資力乏しく、享和元年(1801)久道の保護を受け、松尾の窯場を城東谷山村に移窯し、御用窯
として石焼を創業した。有田風に近い染付や彫刻を加えた白磁器と呉須絵を施した花瓶・茶器等を製出した。
 一時かなりの隆盛をみたが、幕末に再び衰微した。

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