旅するところ、焼き物・骨董あり!                                                                       <<<焼き物・骨董情報サイト>>>

  当サイトでは、筆者が、世界中を旅したところで集めた焼き物・骨董品を、
エピソードと共に、その起源や、特徴を、ご紹介しています。意外な場所に、
意外な、お宝があるものです。画像と共に、うんちくも、お楽しみください。 

御用窯解説(中四国〜九州) 

<鳥取藩>〔因幡国・伯耆国−鳥取県〕
●因久山(いんきゅうざん)焼〔八頭郡中村大字久能寺〕
 寛政期、当主池田治道は、京都の陶工六兵衛を招き、御室焼の伝を受けてから創始された。
 さらに享和・文化期中に信楽の陶工勘蔵が「因久山勘」の銘をもって信楽焼陶法を伝えた。
 文化初年、当主斉邦は事業拡張を奨励・保護して、京都風茶の湯用器を目的として生産した。
●丸山焼〔邑美郡中ノ郷村大字浜阪〕
 天保期に開窯して御用窯とした。維新直前に廃窯された。
 磁器日用品として染付が主で、まれに青磁も焼成した。
●浜阪焼・湯所焼〔邑美郡中ノ郡村大字浜阪〕
 いずれも文久三年(1863)、慶徳の命を受け、但馬国出石町の竹田屋伊八に製磁法を学んだ松田治三郎が、
古窯址に開窯した。

<広瀬藩>〔出雲国−島根県〕
●八幡焼〔広瀬村〕
 広瀬八幡宮神官竹矢豊前は美作国の陶工吉五郎を招き、境内に創窯した。天保六年(1835)、当主越前
松平直義が広瀬村の陶工矢野忠統に命じて製陶した。のち家中物産部に属せられ、保護された。廃藩時に
民窯となった。
 純然たる陶器窯で、長方形に「富田」の刻印があり、「嘉永六年雲州広瀬新町壺泉独賽」の在銘がる。
<母里(もり)藩>〔出雲国−島根県〕
 里母焼は、天馬山地における上天馬・豊岡・中天馬・下天馬焼の四窯を指す総称である。
 文化・文政ころ、当主越前松平直興は、藩内に窯がなく、当時使用の陶器はすべて出雲国の他藩や伯耆国
などから輸入されたため、価格不廉で経済的にも困難なのをみて、領内の自給自足を望んで窯業の保護・
奨励をし、各地に開窯させた。
 文政元年(1818)、家士松原久兵衛の娘が雲州松平家領意東村の陶家石原善右衛門方に嫁したのを機に、
久兵衛は、主命によって善右衛門を招き、布志名焼の工人に従事させ、西母里上卯月木谷に良土を発見して
卯月窯を築き、日用雑器を焼成した。
 文化七年(1810)、新に東母里原代天馬山からも良土を発見し、この地に公許を得て卯月窯を移転し、
上天馬焼を創業した。直興没後、事業は衰微し、弘化四年(1847)、家中の財政上の理由で窯場を民間へ
払い下げた。天保五年(1834)、天馬焼が隆盛となった。
 嘉永三年(1850)、東母里の百姓長兵衛が裏山に豊富な粘土を発見し、豊岡焼を久兵衛が創業して家中の
日用品を焼成した。

<松江藩>〔出雲国−島根県〕
 出雲焼と呼称するのは、御用窯楽山焼、民窯布志名焼、他に小窯意東焼、母里松平家(松江分家)の
母里焼の総称である。
 主家堀尾・京極両家を経て、嘉永十五年(1638)、越前松平直政の入封後、財政の苦しいにかかわらず、
陶器の焼造に熱を入れ、特に楽山・布志名の両窯を、当主治郷(不昧)が深く茶の湯を好んだため、特別な
保護政策を敷いた。
●大崎御庭焼〔江戸大崎下屋敷〕
 文化十三年(1816)、治郷は、国表より布志名焼の陶工二代土屋善四郎政芳を江戸勤番に仰せ付けられ、
楽山焼五代長岡住右衛門貞政とともに江戸下屋敷へ招いて、自己の好みに従って主に抹茶器を焼成した。
善四郎は治郷より「雲善」号を拝領し、瓢形に「雲善」印を使用した。六代住右衛門は命を受け、唐津に赴いて
絵付法を習得したのち帰国し、「空斎」「空」印を用いた。
●楽山焼〔八束郡川津村楽山〕
 慶安初年、当主越前松平直政が築窯した。直政の子の綱隆は延宝五年(1766)、長州の毛利綱広に依頼し、
坂高麗左衛門の弟子倉崎権兵衛をして従事させた(権兵衛焼)。
 原土を萩より持参したため、萩焼と類似する。以降、楽山焼の名をみて、点茶用茶碗・水指・盞等を焼成した。
途中で一時廃れたが、当主宗衍は、宝暦六年(1756)、工人初代土屋善四郎を焼物御用と茶道支配御坊主格
に命じて復興させ、さらに寛政期に宗衍の子の治郷が積極的な指導と保護奨励を加え、二代善四郎に
高麗諸器の模造を多く製させた。
 なお、楽山焼は治郷のとき松江城三の丸御殿・楽山玉造とともに御庭焼とされた。
●布志名焼(富士名・婦志名・若山(じゃくざん)焼)
 万治元年(1658)、布志名焼の前身に意宇郡福留村の福留窯があった。明和元年(1764)、船木与治兵衛が
布地名窯として創業した。民窯であったのを治郷が指示し、安永九年(1780)、楽山焼の陶工初代善四郎を
召し抱え、焼物御用致方として楽焼茶器を焼成した。同十三年、御茶碗師として召し抱えた永原家
初代与蔵順睦は「順睦」「雲与」、二代与蔵建定は「雲与」、「雲永」の銘は三代永助の作で、これを
雲永焼と称した。
●意東(いとう)窯〔八束郡意東村〕
 天保八年(1832)、当主斉貴が設窯し、奉行宅和三郎兵衛が全支配権を有した。創始には、天保三年
または同七年の両説があるが、遺品名から推察する文化期以前、治郷のとき存窯したものの御用窯として
活用されたか否かは確証がない。天保十三年、廃窯した。原因は、燃料用の槇の割木等の購入に詐欺的
不正が生じたり、当該役人と御用商人とが結託して工費を割増し、また、精巧品を藩重役の間で取り上げ、
一般への販売品が中級以下となったことなどが挙げられる。
 花生・香炉・徳利・酒杯等の白磁藍模様、絵付山水・唐草模様、他に青磁に彫刻を施したもの等がある。
 銘款に「長歳山」「雲陽長歳山」、支那製を模して「大明年製」、また「意東製」「月漢画」「月光画」等がある。

<浜田藩>〔石見国−島根県〕
●長浜焼〔郡賀郡長浜村熱田〕
 創業は慶長期。当主本多忠粛の明和三年(1766)、陶工の野田家三代の永見房造が製陶した(永見焼)。
四代房造は彫刻に優れ、当主松井松平康福の命によって津和野の亀井矩貞に楽焼法を学んだのち、
土焼床置・小児玩具を製造し、さらに康福の指導によって絵具を改良した。
 銘印に「永見」「岩越」がある。

<津和野藩>〔石見国−島根県〕
●御庭焼
 弘化二年(1845)当主亀井矩貞は、出雲国布志名焼の陶工三代土屋善六を招き、御庭焼を築窯したが、
一代で廃絶した。
●喜阿弥(きあみ)窯〔美濃郡喜阿弥村〕
 安政初年、矩貞が御用窯を築いた。生掛け手法によって台所用品および土管等を製出し、領内の需要を
満たすほか、領内の貿易港高津から主として萩方面へも輸出した。
●白上(しろかみ)焼〔美濃郡白上村〕
 当主玆監の万延元年(1860)、長門国阿武郡小畑村の陶工野田庄太・元蔵が当地で珪石を発見して開窯した。
家中物産方付属となり、資金の貸与を受けた。

<明石藩>〔播磨国−兵庫県〕
●明石焼〔赤浦〕
 元和八年(1622)、当主小笠原忠真の招きで、京都より来藩した仁清は、以前より土印や陶器を製した
戸田織部之助とともに御用窯を興し、製陶に従事した。仁清は寛永八年(1631)まで領主邸内で焼造した。
 当初、朝霧焼と称したが、忠真が寛永十年に豊前小倉へ移封後、明石中谷山へ移窯し、明石焼と改名した。
当主戸田光重のとき、再び赤浦に移り、朝霧焼の名に戻した。
 その他、舞子焼(文政三年=1820)、安南焼(文久二年=1862)、ほのぼの焼等と称したが、朝霧焼が播磨国
最古(元禄十三年=1700ころ)の呼称とされる。「朝霧」の印である。天保期、当主越前松平斉宣のとき、
寺岡次兵衛の明石青磁に「赤浦山」の銘印を捺した。

<姫路藩>〔播磨国−兵庫県〕
●東山(とうざん)焼〔飾東郡東山村〕
 安永期、兵庫港の木屋家番頭、繁内幸助が製陶を始めたが、しばらくして廃絶し、のち大坂で家中の
御蔵番である橘仙京の子周蔵が、京都の陶工尾形周平に学んだのを幸いに、天保三年(1832)、新に
当主酒井忠実が保護奨励して城下小利下町に再興し、御用窯とした。天保五年(1834)、当主忠宝は、
山ノ井村へ移窯した。嘉永五年(1852)、忠宝は、江戸酒井邸に十二代将軍家慶の御成りの際、土産に
東山焼を献上した。これは、当窯で京都より周平・高橋道八・水越与三兵衛が陶製し、画工雀亭珍、
摂津国三田窯の陶工らを招き、原料に天草石・丹波古布石を混用し、百日間費やして奉行萩原が
江戸表へ届けた。
 染付・五彩等に花鳥模様などを描写しており支那風である。無銘が多いが、通常は「東山」の銘である。
「姫路製」はのちに金井・神沢両名の工場にて製陶したもので、別称、姫路焼の名が起こり「播磨東山」の
銘がある。
 安政期、当主忠顕のときに民窯となって、桔梗・木綿屋・西治屋・高原の名義で大坂方面へ一般に市販した。

<岡山藩>〔備前国−岡山県〕
 備前焼 は通常、伊部(いんべ)焼・閑谷(しずたに)焼の両窯およびその系統も含めた総称である。
●後楽園御庭焼
 宝永期、当主池田綱政が伊部の陶工を招き焼成させたのを始めとする。以後、維政・宗政・治政と四代
継続した。
 仁清風施釉。幼君・子女の教育用玩具。
 御細工焼は、当主の手造りで、伊部窯の焼き不足を補い、素焼上に胡粉(白釉)で地塗り、淡白な
黄・青・紫を施釉。
●色絵備前(彩色備前)
 素焼のままで窯出し、御抱え絵師長谷川常雄らが顔料を施し、一見狩野派風である。鶏・大黒・布袋・
七福神等の観賞用置物が主である。
 正徳五年(1715)、継政のときの三十六歌仙像は、狩野三徳・自得父子を御抱え絵師に、元信筆を模して
図案彩色させたと伝える。
●伊部(いんべ)焼(尹部・印部焼)〔和気郡伊部村〕
 通常、備前焼の別名のように称されたが、茶湯方ではその手法を区別して、遠州のときに始まった伊部手を
特に指していう。
 家中の窯保護の政策は古く、慶長八年(1603)、池田忠継が岡山へ入封のときが創始である。
 垂仁天皇の土師職により創始されたとする窯は、天正十年(1582)、秀吉が中国遠征中、備中国松山に
立ち寄った際、伊部の大饗五郎左衛門方に宿泊して、旧来の六陶家に竹木御免書を下し、秀吉献上窯とした。
のちに忠継は片上駅本陣の焼物細工上覧を習いとした。元禄期、当主綱政は、細工人家の木村長右衛門に
毎年米十五俵を与え、家中の御用達として奨励した。宝暦期、当主宗政は新に金重利作を、また当主斉政の
寛政期、木村新七を御用達とした。
 当主慶政は、嘉永二年(1849)、七代目木村長十郎に扶持米を増加するなど保護した。
 明確な窯株制度によってそのすべてを行政下に置き売買を禁止した。
 幕府への献上は宗政のとき以後で、香炉・置物等を主にし、焼成後の開窯には検使役の立合いを必要とした。
さらに幕府は御徒士目付を派遣して陶器鑑査を奨励した。
 天正期以前は、無釉素焼の種浸し壺・種壺等を産出し、秀吉のときの南蛮物を見本に茶器を焼き出し、
紫土に火襷・松葉焦げ・榎肌が現出され、忠継入封後、人物・鳥獣等の置物細工を製造し、正徳元年(1711)、
綱政のとき初めて白焼を焼き出したが、他に青焼もある。
●閑谷(しづたに)焼〔深安郡広瀬村姫谷〕
 元和八年(1622)、水野勝成が備後国に入封し、福山城を建築したころに開窯した。以後、寛文十年(1670)
ころまで二十数年間、勝俊・勝貞・勝種の四代にわたり庇護・奨励した。
 陶器は褐色・銅緑釉、磁器は卵色を帯び、双方ともに染付を施し、上絵を付して茶器を主体に皿・鉢・
抹茶茶碗を焼成した。正保三年(1646)、勝成は入道して一分斎宗休と称し、茶事に余生を楽しんだ折り、
ひそかに有田の陶工を招き、金山母岩を磁器の材料として焼かせたことがあった。
●福山焼〔深津郡引野村岩谷〕
 天保二年(1831)、当主阿部正寧が奨励し、磁器窯を興した。黒色土器の茶具を製した。

<広島藩>〔沼田郡江波山〕
 天明・寛政期、加茂郡の陶工が厳島神社の神砂と他の砂とを混ぜ合わせ、土器を焼成して神社に献納
したのが創始である。別称、宮島焼で、暫時中絶した。
 文政十二年(1829)、当主浅野斉賢は、国産の奨励と保護のため、京都の陶工数名を招き、城下の南に
改窯した。陶製品には必ず、神砂を混ぜ、かつ神社の分窯を勧請して鎮守とした。
 当主斉粛の天保十年(1839)ころ、衰微して廃窯したのち、二度、民窯として再興されたが、文久元年(1861)、
勘定奉行西村正備の内意を受け、松岡清次郎が安芸郡仁保島淵崎村に築窯した。しかし、またしても、
ほどなく廃窯をみた。

<萩藩>〔周防国・長門国−山口県〕
 萩焼 とは地名による呼称で、深川焼深川萩・松本焼松本萩の総称である。
 一説に、三輪休雪の製品を松本焼と呼び、坂高麗左衛門の萩焼と区別する説もあったが、元来、三輪家は
坂家に弟子入りして陶法を伝授されたもので、また窯も同所に存在し、製品も坂家焼成品と大差がないので、
ここでは前者の説をとりたい。
●深川(ふかわ)焼・深川萩〔大津郡深川村三ノ瀬〕
 文禄・慶長の役において、毛利輝元が朝鮮より連れ帰った季勺光が帰化、主命によって開窯した。勺光は
萩焼元祖と称えられる。
 寛永二年(1625)、勺光の子作之丞光政は、主君秀就の命により山村新兵衛と改名した。明暦四年(1658)
新兵衛没後、長子の平四郎光俊は、山村窯として新たに開窯したが、当主重就の明和ごろ、五代源次郎光信
のときに廃絶した。
 このころ、民窯でありながら主君の保護を受けた者に、坂倉・倉崎・能美・新庄・坂田・田原・山下の諸家があり、
陶業に従事していた。そのうち、六代藤左衛門は坂倉と改姓して山村窯を継承し、重就より許可を得て私製も
兼ねて製陶に当たった。
 しかし、この時期よりいわゆる萩焼と通称され、深川焼の名称は山村窯の廃絶とともに消滅した。
 深川焼は萩焼の根源をなすもので、原土を、古くは深川村開作および御所原から採取して用い、高麗系の
手法を伝える、という。のちの萩焼よりも滑らかな施釉をみた。
 家中の保護政策下にあって、窯業に関するすべての領外よりの移入を堅く禁じていた。
 白釉を得意として、そのほか青磁・天目・黄・海鼠釉等が焼成され、まれに楽焼もみる。茶器を中心として日用
雑器も多量に製作した。
●松本焼・松本萩〔阿武郡松本村字中ノ倉〕
 慶長五年(1600)、毛利輝元の入封後、深川焼の祖季勺光の弟季敬が、帰化して萩城下の東松本の地に
良土を発見し、萩焼の元窯を開窯した。
 以後、廃藩まで御用御抱え窯とした。季敬は坂本助八と改名し、さらに、寛永二年(1625)、秀就より坂高麗
左衛門の名(号、韓峯山)と判物を拝領し、以後、坂窯と呼ばれ、当主の保護を受けて興隆したが、三代新兵
衛忠順のとき寛文八年〜享保十四年(1668〜1729)、当主綱広・吉就・吉広・吉元の四代に仕えたが、
そのめまぐるしく変わる行政下に経営の上で支障があって、
  唐人山之儀は父新兵衛御預かり申上、福隠岐様御当役之節差上申候事
という状況に至ったが、屈せず依然と御抱え窯として継続し、当領内にある諸窯の元締めとして権威を
保ち得たのである。
 また、坂高麗左衛門の弟子三輪休雪は、大和国三輪より来遊し、寛文三年(1663)秀就に仕え、萩城下の
小畑小丸山麓に三輪窯を築いた。坂窯の元窯に対して脇窯に当たり、当初は楽焼を主に焼成したが、
のちに陶器を製した。
 製品は、三代新兵衛時代までを古萩と称し、萩焼のなかで名声を博した。作風は朝鮮を模し、淡白黄の施と
釉中に貫入を持つものがあり、抹茶器類が最も多く、ほかに花瓶・香台・盞・盆等を焼成した。なかでも、
そのほとんどに割高台をみる抹茶茶碗は、後世、茶人間で「一萩二楽三唐津」と賞されるに至った。
 萩光悦は、本阿弥光悦が見本として形を造って萩窯へ送り、萩窯の陶工により焼成された作品を称する。
 その他、茶碗の一部に俵の端に見受ける丸紋を象嵌した俵茶椀、萩三島・萩刷毛目・井戸茶碗・鬼萩等の
萩焼独特の名をみる。
 休雪八代三輪泥介が製陶した茶器類に「雪山」の印款が二種ある。
●末田窯〔周防国佐波郡牟礼村末田〕
 天明八年(1788)、当主治親が奨励して、陶工内田善右衛門が開窯した。土質製陶に従事したが、
当主斉房の寛政五年(1793)廃絶した。
付:志都岐焼
 御庭焼。当主年代は不詳であるが、城内に窯跡が現存する。

<岩国領内>〔周防国−山口県〕
●岩国焼(多田焼)〔玖阿郡岩国〕
 岩国領主吉川家は、宗家の長州毛利家の別家として、幕府より特別の待遇を得て、独自に領内支配に
当たり、正式に立藩したのは、領主吉川経幹の慶応四年(1868)である。
 元禄十三年(1700)、領主吉川広逵は、京都の陶工西村安兵衛を招き多田村に築窯した。文政期に
廃窯となった。
 銘款に「岩国多田」「多田」がある。
 天保三年(1832)、領主経礼は初代十三軒吉向を招き再興して、南京写・和蘭陀写を焼成した。
吉向行阿の楽焼作品に「岩国山吉向製」「十三軒」銘がある。天保八年(1837)、吉向が去るに及んで廃絶した。

<長府藩>〔長門国−山口県〕
●松風山焼〔豊浦郡勝山村〕
 長州の萩焼の開祖、初代坂高麗左衛門は、当主毛利秀元に伴われ、この地において開窯したのち、
長州領内へ移住したと伝えられる。当主元義の天保期に再び窯を興し、日用雑器・茶器等を焼造した。
磁器を主とするが、まれに呉須彩文を見る。
鷹山窯(鷹羽焼) 〔豊浦郡長府鷹羽山〕
 天保期に、元義が肥前国の陶工鳴瀬常信を招き築窯した。銘款は「鷹山」である。
●御前土器焼
 楽焼の陶工師藤井文斎が、江戸に至って今戸焼の陶工を連れ帰り、御庭焼を始め、従事した。すなわち
当地楽焼の祖とされる。
 文斎没後、石光甚三が跡を継いだが、暫時にして廃窯した。

<清末藩>〔長門国−山口県〕
●小月焼(星里焼)〔豊浦郡小月町字宮ノ尾(せいり)〕
 慶応三年(1867)、当主毛利元純は、京都の陶工を招き、家臣藤井宗助をもって、濃色釉のかかった
日用雑器を焼成し、家中の物産として保護奨励した。

<徳島藩>〔阿波国・淡路国−徳島県・兵庫県〕
●阿波焼〔阿波国徳島城下〕
 宝暦期、当主蜂須賀重嘉が別邸において石焼を焼成した。御庭焼である。
 水指・茶入・香合等の茶器のみを製し、浅黄・水色釉と清雅な色彩は賢味を帯びる。これは、一代で廃窯した。
陶工は文七。
●淡路焼(御庭焼時代を含む。稲田焼)〔淡路国三原郡伊賀野村〕
 文政期、同村の醤油醸造業加集a平が築窯し、伊賀野焼を創業したが、経営は苦しかった。当主斉昌は
見兼ねてこれを城中へ招き、庭焼を築窯した。池ノ内村の白土を採取して楽焼茶碗を焼成した。
 斉昌はa平に勝瑞号を与え、淡路焼と改名した。のち御庭窯を去り、天保五年(1834)a平自ら京都へ赴き、
陶工尾形周平の下で手法を学び、二年後に帰国し、同九年、茶褐釉・欝白釉を創製した。a平個人窯で、
またしても経営がくるしくなった折り、同十三年、斉昌はたびたび窯場を視察して督励、資を投じて藩窯を興した。
同十四年、中国風青華陶・絵高麗および艶黒等の諸釉を発明した。
●庸八焼
 天保初期、淡路で御庭焼に従事したa平が去ったのち、讃岐本国の御用窯の陶工富永庸八を招き、
楽焼茶器を焼成した。

<高松藩>〔讃岐国−香川県〕
●理平(りへい)焼(理兵衛・高松・稲荷山焼)〔高松藩別邸栗林荘内〕
 慶安三年(1649)、当主松平頼重は、京都粟田口の陶工紀太理兵衛を招いて創窯し、御庭焼とした。
破風高印と呼ぶ山形の「高」の刻印は、二代理兵衛重治である。まれに「造」も用いた。初代理兵衛は
仁清の門人との説があるが、作風は類似が多い。貫入の細かい地肌と独特の瑠璃釉は、粟田あるいは
古清水を思わせる。
●陶浜焼〔郷東御殿山〕
 寛政期、当主頼儀に仕えた陶工赤松松山の子陶浜が製陶し、頼儀に献上した。以後、主家の保護を
受けるが、一代限りであった。
●屋島焼(八島焼)〔木田郡西潟元村〕
 享和三年(1803)頼儀の命によって三谷林造が開窯した。交趾写を製した。
 行、草書で「林叟」、「屋島焼」は楕円内に楷書で書かれ、まれに「九十六翁」と記すのもある。
●庸八焼〔大川郡富田村〕
 天保期、当主頼恕(号、楽只軒)のころ、同村吉金の御用窯で焼造した。天保三年(1832)三月作の
花生・壺等が現存する。
●讃窯(さんよう)〔大川郡三本松〕
 作品を讃窯道八と称する。当主頼恕の天保三年(1832)、堤治兵衛を介して京都の陶工二代・三代
仁阿弥道八親子を招き築窯した。同四年正月、作品を頼恕に献上した。八月、道八を召して「讃窯」の
銘字を賜った。
 頼恕はさらに、献上品中の数十点を松平家保護として鈴木綿江に模写を命じ残させた。亀甲内楷書の
「讃窯」は印銘、「讃窯」は書銘。 
 また、斡旋者堤治兵衛も道八の指導を受け、陶製し、「酔茗亭」「必良」「珠淵」の銘印があって堤焼と呼ぶ。
●讃窯御庭焼
 当主頼胤の嘉永四年(1851)四月、道八親子は再び来遊して従事した。頼胤が高畑の自邸に製陶状況を
視察することがあり、俗に御庭焼と称した。
 「華中亭道八」「清風」銘を用いる。

<丸亀藩>〔讃岐国−香川県〕
●丸亀御庭焼
 仁清は晩年の万治年間(1658〜60)、当主京極高和に招かれ、命により城内において茶器・水指・皿・鉢・
壺等を製した。仁清作品中の傑作といわれた茶壺等の大部分は、当地か、または確証ないが、高和の
前封地である播磨国竜野で焼造したとの説もあるが、これらを含めて丸亀仁清と呼んでいる。姿は極めて
美しく曲線なだらかで、彩色施釉に色絵の枠をみる。

<松山藩>〔伊予国−愛媛県〕
●松山御庭焼(瀬戸助・東野・松山焼)
 当主久松松平定行は、万治元年(1658)家督を定頼に譲り、城下東南の東野に別邸を建築し移住した。
松山・勝山と号し、瀬戸の陶工瀬戸助を招き御庭焼をして築窯した。
 茶器類・石灯籠・蹲踞・景石等を焼成し、染付・青磁・薩摩・朝鮮・伊部等の写物がある。最上物に唐鳥
模様を有し、裏に楷・行書で「瀬戸助」の印、楷・草書輪郭丸印に「予州松山」は京都の陶工河合瑞豊作で
常用品、楷書で「松山」は高山窯の陶工松山の用印である。寛文八年(1668)定保の没後、廃窯となる。

<大洲藩>〔伊予国−愛媛県〕
●梁瀬焼〔喜多郡大竹村〕
 元禄十一年(1698)当主加藤泰昌が、上方の陶工才兵衛を招いて焼成した御庭焼である。享保十二年
(1727)当主泰温が相続後、明倫堂を設け文武奨励し、「大洲銀礼」を始めるほど経済の面に質素をモットー
としたため、家中の保護を取りやめて個人経営の民窯とした。茶人間で珍重される焼締風炉が代表である。
 豊前国上野焼の渡家の一族作に「渡則高作」の刻銘がある。
砥部焼
 当主泰候の安永四年(1775)、砥石山五本末上原に上原窯を築き、行政のひとつとして分家の新谷の
加藤家とともに、泰候の臣加藤三兵衛に命じて陶工杉野丈助の下で焼造し、開窯させた。同年四月三日、
第一回焼成の新事業で失敗し、同年十二月、第二回窯入したが、筑前国上須恵の陶工信吉が来訪し、
これを見て釉薬の不良を発見した。帰国後、釉薬・原料・蚊母樹灰等を持参して焼造し、同六年十二月、
磁器の完成を見た。
 当主泰済は、上原窯を御用油師門田金治へ下賜し、新に桶屋向井源治をして五本松に開窯し、保護を
加え奨励した。
 当主泰幹の文政十二年(1829)、大南(城戸)に喜代八が御用窯を築いた。
 終始染付を中心に、「与大須製」の銘記がある。砥部窯は、他国の御庭焼・御用窯と旨趣が異なって、
まったく地方産発行のため開業されたもので、両家とも地方の資産家に創業させて、のち民窯とした。
販売は主に四国地方内、中国瀬戸内海辺の漁村農村で、松前(まさき)商人の手を経た。飯茶碗・弁当箱・
丼・徳利等の下手物が多い。
 天保期中の郡中十錦手は、郡中町小谷屋利八郎が支那製上絵十錦手に模し、磁器釉表に青・緑・赤等の
上絵具を厚塗りにして、唐草を釘掘りして焼成した。他に建盞白磁風淡青磁がある。

<高知藩>〔土佐国−高知県〕
●尾戸(おど)焼
 当主山内忠義は、国内に陶業がないため、承応二年(1653)八月、大坂の高津焼久野正伯(松伯焼)を招き、
森田久右衛門・山崎平内とともに御用窯として築窯した。
 窯場は承応〜寛文、寛文〜享保、享保〜文政三年(1820)と三転するが、いずれも城下西北に位置して、
主に主君お好みの茶器と諸大名への贈答品、ほかに日用雑器も焼成した。
 土佐の土を用いるため、土の色が土器色に少し黄身を帯び、釉薬色も光沢が沈み、不透明ではあるが、
当時、薩摩の島津家中のみに限られた白磁染付水指を作った。
 絵付物は金銀・赤・緑・浅黄等の色を使用するため、仁清に類似し、粟田焼と薩摩焼の中間で安南風である。
●能茶山(のうさやま)焼〔土佐郡鴨田村能茶山〕
 前述した尾戸焼は、陶器のみが焼かれ一般に領内で用いる磁器はもっぱら輸入に依存されていたため、
新たに磁器を主とし、文政三年(1820)、当主豊資は、御町方御趣向に命じ、尾戸窯を当地へ移し、
家中直営の窯を興した。この結果、家中の冗費解消と同時に、国産奨励に発展するが、磁器陶工の
不在のために、肥前国の樋口富蔵・讃岐国の市郎左衛門ら七名を招き、天保二年(1831)まで十年間
従事させた。
 主に祭儀器・日用雑器・花瓶等のほか、まれに置物・茶器類を焼造した。隷書で「能茶山製」の銘は
天保期作、天保末以降の「茶山」角銘印は、年代ごとに角印に多少の変化をみた。
 文久三年(1863)、御趣向焼物方が一時廃止されるのと同時に、御用窯も解消した。

<福岡藩>〔筑前国−福岡県〕
 高取焼は、文禄・慶長の役によって渡鮮した当主黒田長政が連れ帰った朝鮮人の陶工によって開窯
したのがその発端である。廃藩まで終始、黒田家の御用窯 とした。
●古高取
 慶長三年(1598)十一月、豊前中津領主黒田長政は、朝鮮韋登の陶工八山・六蔵らを連れ帰り、両名を
領内の原土・釉薬の発掘を命じ、ついに鞍手郡鷹取山鷹取城下に発見し、永満寺宅間において開窯して
製陶を創業した。同五年十二月、長政は筑前福岡へ転封し、福岡領主となった。
 慶長十九年、幕命により鷹取城は破棄され、鞍手郡内ヶ磯に移窯し、加藤清正が連れ帰った新九郎が
ともに従事した。
 製品は家中指導下にあり、長政はその巧みさを賞して八山を鷹取八蔵と改名して士族に列せられたが、
のちに世評盛んとなるに従い、高慢不遜な行為があるとして当主忠之は食録を没収した。不満を抱いた
八蔵・八郎右衛門父子は帰国せんとしたのを仲介する人があり、嘉穂郡山口の唐人谷へ移転開窯した。
このため内ヶ磯は消滅した。朝鮮系統・唐津風に類似した。下釉のない堅焼物を焼成した。
●遠州高取
 寛永七年(1630)、忠之は再び八蔵父子を召し、穂波郡合屋中村の白旗山北麓の撃鼓神社付近に築窯後、
主命によって山城国伏見に居住する小堀遠州のもとで、茶器陶法を伝授されて帰国した。当時、唐津、
唐津領主寺沢広高に仕えた五十嵐次郎左衛門が浪人して福岡に来遊した。瀬戸陶法を心得ているため
御用窯の事に従うこととなり、八蔵父子とともに陶業を行った。
 茶入のなかで今日その名を馳せるものが多く、高取大海・高取耳付・秋の夜・松風・鶴頭・牛枕・横雲・立枝
など中興名物とされたのは寛永中期から正保末期にかけて焼成された、とされる。
 古高取のとき下釉がなかったが、瀬戸の法をとり入れたため、下釉が加わり、茶・黒釉上に黒斑点をみる。
●田島高取(有泉亭御庭焼)
 寛永期、当主忠之は、福岡城下田島村東松原の有泉亭内に小石原の陶工を招き焼成した。
 技術的には優れているが、土質が調和できず、焼切れが多いために暫時廃窯した。宣政の享保元年
(1716)西皿山へ移転した。
●小石原高取
 寛文七年(1667)光之は上座郡小石原鼓ヶ滝下流の鼓村に小石原窯を築いた。
 さらに天和二年(1682)小石原南の中野に有田の陶工を招き、明代の青華白磁を模写し、筑前で初の磁器を
焼成、中野焼を興した。
 貞享期、皿山奉行を設置、領主の常用品を主として、銘「成化年製」を入れる。
●東山高取
 宝永五年(1708)二月、当主綱政は、小石原窯を早良郡麁原村上ノ山に移転して東山窯(東皿山窯)を築き
八蔵の子孫を招いて製陶した。特に皿山奉行を設置して監督させ、焼き出しは年一度限り、抹茶茶碗・茶入・
置物等に種類を限定し、他製品の焼成を禁じ、意にそぐわないものを破砕して粗品の焼成を抑えた。
幕府および諸侯への贈答用に限られ、特別事情があるときのみ数量制限して民間へ払い下げることを許可した。
 当主宣政・継高の享保期に香炉・水指・茶碗の陶製品が増加した。
 当主長溥の文久期に東山役所を設置した。維新時、藩の保護を停止し、以後衰微した。
●西山高取
 正徳期、宣政は、領内の産出が少ないのを憂え、小石原窯の柳瀬三右衛門を招いて東皿山より西方の
トンツラ山麓に精巧品専用の窯を築いた。享保二年(1717)正月に竣工後、宣政自ら視察して焼成した。
 原土採取場として麁原・七隈・金武・長尾各村を与え保護した。
 当窯は、家中の財政の収益があがるのを目的として設立され、日用雑器が多く、家中が経営を援助したのち、
物産役所の管理下で商人に売却された。維新時に管理停止となり、以後、次第に衰微した。
●須恵焼〔粕屋郡須恵村字皿山〕
 安永初期、当主治之が中野焼を再興のため築窯した。当地は、古来、須恵物に関する資料が豊富である
肥前・高取の陶工を招き、磁器を製した。主に主君御用の殿窯である。したがって無銘が多くまれに「スエ」、
染付香合に「天明年製スエ」の款がある。天明二年(1782)治之の没後、行政改革があって廃窯した。
 享和元年(1801)民間で続行された窯から、当主長順を通し、幕府へ献上および緒家へ贈答した。当主
長溥の安政末期、家中は新たに須恵皿山役所を設置し、奉行山田藤作をして復興し、大量生産の基礎を
確立した。京都・瀬戸・肥前の陶工を多く招き、水車約四十台を設備し、「皿山切手」の通貨に至るまで発行した。
製出された磁器の販路は、払い下げ制度によって商人より各地販売と国外販売に置いた。
 安政七年(1860)二月、下関支店を設立し、維新の変革の際に、当主の秩禄奉還により廃窯した。
 青磁・赤絵の雑器を中心に茶湯道具も焼造した。小判形内に「須恵」、単に染付「須恵」、祥瑞・和蘭陀写は
中国風に「化成年製」「宣徳年製」「永楽年製」「嘉靖年製」と書かれた。
●野間焼〔那珂郡野間村〕
 当主斉清の安政三年(1856)、藩精錬所の一部として主命によって京都の陶工佐々木与三が御用窯を
開窯した。京焼類土瓶・急須・茶碗等を製し、文久二年(1862)須恵皿山役所に付属させたれた。

<久留米藩>〔筑後国−福岡県〕
●柳原焼〔久留米城三ノ丸〕
天保三〜七年(1832〜36)まで存続した当主有馬頼徳(月船)の御庭焼で、主に頼徳の上用茶器を焼成し、
また日用品も製したが、幕府および諸家への贈答品のみで市販を禁じた、
珠光青磁・捩ぢ・蕎麦・赤絵・南蛮・伊羅保・熊川・三島・井戸・御本・雲鶴・半使など、和物に信楽・備前・唐津・
瀬戸・志野などがある。銘款は、頼徳手造りには器底に箆で「有作作」「成」の書判文字と、小豆大の
楕円輪郭中に陽字印で「柳原」がある。他に小判形一重輪郭中に「柳原」、陽刻印で「柳原」、単に
「柳原」「柳はら」の刻銘がある。珍印に、茶碗高台中央部を茶筅の先でつけたり、五輪花形を箆で刻
したものがある。一般作人では、高台内あるいは外側に染付で花形を描くのは有田工人である。
さらに茶碗には、いろは四十七文字の番号、杓立の底には箆で二十三・三十五と入れた。「良八作」
「とらきち」等は陶工自己の作銘である。
このように頼徳は陶芸に傾倒しすぎ、没するや当主頼永自ら大節倹令を下す結果となった。
●東野亭(とうやてい)焼〔城外別邸東野亭〕
 幕末の当主頼成の御庭焼である。陶工緒方宗市が主命によって製陶に当たり、画工は京都の岡本新吉で
ある。廃藩と同時に廃絶した。
●坂東寺焼(熊野土器)〔上妻郡熊野村〕
 元和初期、当主田中吉政が柳河領蒲池焼の陶工家長藤兵衛を招き、坂東寺境内に御用窯を築いた。
 元和六年(1620)、有馬豊氏が当主として入封後も存続し、廃藩まで御用窯とした。藤兵衛が坂東寺の
田中五郎左衛門の養子となって以後、代々御用土器師を受け継いだ。
 酒器・炉具・茶器類のほか日用雑器等を製し蒲池焼に類似する。「元政」「南筑陶司」「南笠陶司」の
銘款がある。
●朝妻焼〔御井郡合川村〕
 当主田中吉政の元和二年(1616)、祥瑞五郎大夫は明より帰国し、時期を焼成した。
 正徳期、当主有馬則維が旧地に再興した仕法窯である。
 肥前国有田・伊万里の陶工・絵師を招き、赤絵・青華および白釉の皿・鉢・茶碗等の食器類が主で、
銘印は「朝」である。
●高木窯(星野焼・十籠(じゅうごも))〔八女郡星野村十籠・麻生〕
 天正期、尾張国瀬戸の陶工六郎が開窯した。
 正徳四年(1714)、当主有馬則維が陶工の高木家をして再興させた御用窯で、元文ごろに廃されて
一時民窯となったが、文化期に当主頼貴が再び御用窯とした。現在、最古の製品に享保九年の箱書がある。
 窯場付近は八女茶の生産地であるため、茶甕の製出が多く、食器・茶器・花器・香炉その他を多少焼成した。
鯛生金山続きの土質柄から、釉薬の中にいくぶん金粉を含み、黄・褐・黒・蕎麦・海鼠等を施釉し、絵師が
領内には不在のため紋様・型押等であった。銘は「十」「星」一字を切り、「星野」「星野十籠」と刻み、
その書体の多くは行書である。茶器類は瓢形中に「星の」「星野」、まれに方形中に「日生野」の銘印がある。
●水田焼〔八女郡水田村〕
 元来、窯元の本田主水が素焼の神具を焼造したが、のちに末孫の能登から数代を経て分家した近藤家が、
天明期の当主頼貴より銀五百匁を拝領し御用窯となった。土鍋が主体である。
●久留米焼〔久留米町〕
 万延元年(1860)当主頼成の命により開窯した。朝鮮御本・柿瀬戸・黒瀬戸を模した。御本は、黄伊羅保の
薄色で赤斑点をもつ砂御手本の類である。

<柳河藩>〔筑後国−福岡県〕
●蒲池焼(柳河焼)〔三瀦郡蒲池村〕
 当主立花宗茂のとき豊臣秀吉の征韓中に、佐賀鍋島家の家臣家長彦三郎が朝鮮伝来の陶法により
肥前国名護屋に創業し、秀吉より土器御朱印を拝領した。慶長九年(1604)この地へ移窯して以来、
立花家の御用窯となった。幕府への献上のための秘密を守る必要から御庭焼とした。
 砂器の一種で白く、緻密な黒色斑点をもった風炉が珍重される。
●二川焼〔三池郡二川村〕
 天保期、当主(鑑賢か鑑備)の許可を得て肥前の陶工丑之助が開窯し、上手物の茶器を主として製した。

<小倉藩>〔豊前国−福岡県〕
上野(あがの)焼 〔田川郡上野村〕
 慶長五年(1600)、細川忠興(三斎)が丹後国田辺より小倉へ移封された折り、熊本の加藤清正が朝鮮より
連れ帰った帰化人、釜山鎮海城主尊益の子尊楷を招き、上野喜蔵高国と改名させて城下菜園場村に築窯し、
朝鮮風陶器の焼成を命じた。のちに上野村に移窯した。
 寛文九年(1669)当主忠利が熊本に国替えの際、喜蔵は同行したが、三男十時孫左衛門・女婿渡久左衛門が
上野に留まり、当主小笠原忠真に仕え、茶器を焼成した。寛永期、小堀遠州の指導を受け遠州七窯の
一つとされ、高取や丹波などと比較すると、釉立ち光彩がなく、茶碗の多くは安南写、水指瀬戸一重口、
茶入は金気春慶の渋紙手等に類似するものが多い。
 のちの大振茶碗は非常に軽く、黄土に透明釉をかけたもの。硬火度焼白色のもの等を開発し焼成した。
古作は無印で、「巴」印は幕末ごろより使用した。
●太郎助焼
 慶長〜寛永期、茶湯師古市宗理の弟子で、船頭町大年寄役の向太郎が主に楽焼風茶器を焼成した。
特に風炉・茶入・茶碗・水指等を忠興の命によって造った。上野焼と区別して、特に太郎助楽焼と呼んだ。

<杵築藩>〔豊後国−大分県〕
 当主能美松平親良の天保期、その御用窯い従事していた梶原忠蔵が、佐賀の鍋島家の許可を得て、
肥前有田の黒牟田山に、非常時保存用の御用梅干壺を製陶したとあるが、窯名等の詳細は不明である。

<佐賀藩>〔肥前国−佐賀県〕
 佐賀本庄村の土豪鍋島家は、肥前地方を支配していた竜造寺隆信の重臣であり、隆信敗死後、
その実権を掌握し、慶長十八年(1613)鍋島勝茂が佐賀領主となった。
 鍋島家の陶器御用品は、有田の酒井田柿右衛門・辻嘉右衛門の両家に命じて焼成させ納品した折り、
鍋島家御用窯が築かれた、という。
鍋島焼
・第一期御用窯・岩谷川内窯〔松浦郡有田皿山岩谷川内〕
 寛永五年(1628)当主初代勝茂は、陶器方役に有田の多久家の家臣である副田孫三郎の監督下で
御用窯を築き、磁器の焼出が鍋島家御用窯の創始となった。
・第二期御用窯・南川原窯〔松浦郡南川原〕
 有田皿山は国道筋沿いの、交通往来の激しい土地柄であるため御用窯の秘伝が保ち難く、寛文元年
(1661)二代光茂は柿右衛門居所地を南川原に移転させ、南川原窯を築いた。
・第三期御用窯・大川内窯〔松浦郡大川内山〕
 南川原の地も他領と接近しているため、光茂の延宝三年(1675)、山谷奥大川内にやむなく移転し、
以後、廃藩まで定着した。
 単に鍋島焼と称されるのはこの窯での焼成品を指し、別称を大川内殿窯といったが、以降は御留焼
として知られる。
 このように人里離れた奥地を求めた理由は、御用窯開設を構想した勝茂が、有田内に存する磁器の
主原料となった陶石を発見し得たことにあり、朝鮮李朝系および在住の陶工に製陶させたが、その運営が
順調になり、幕府への献上と諸大名への贈答品として焼出されたため、極秘としたのである。
 さらに、大川内三本柳に青磁鉱床を発見して以後、光茂は、職制や製陶工程などを中国の官窯に模して
臨んだ。これらの事情により、御用留めとした。酒井田家は不振に陥り、享保八年(1723)六代柿右衛門は、
当主の四代吉茂に再御用命の嘆願を提出した結果、他の民窯も含めて御用窯方においても年額の直接
製造を制限し、その余分を委託された。
 大川内殿窯が明治四年の廃藩時までの二百年間、多少の変容はあったが、中断なく継続したのは、
極秘裏に充実された生産組織と藩庁の保護監督が実を結んだといえ、元禄から享保期の光茂・綱茂時代に
その全盛期をみた。
 窯の管理役は藩士副田日清に命じて、第一期御用窯以降、副田家の世襲としたが、八代治茂の天明期より、
皿山代官所支配下に移されて幕末まで継続した。
 焼成品はすべて当主より将軍家への献上と諸侯への贈答品で、維新ごろまでは民間へは非売品とされた
ため、きわめて貴重
とされる。
 初期製品中、青磁は鍋島青磁と呼ばれ、色は浅黄にして深味なく、下手ではあるが、染付とともに扱われた
手法は他窯にみることができないほど面白さを発揮する。
 また、色絵鍋島と称えられる赤絵物等は、柿右衛門・今右衛門らの名工を得て大成された。素地の形状は
正確で斑点・疵などは皆無である。さらに大きさは一定化され、絵付は精巧で上品さを漂わせる。磁料は
有田泉山(石英粗面岩)の御用杭より採取され、青磁釉は大川内村三本柳からの原料によった。
●内野山窯(嬉野焼)〔藤津郡西嬉野村大字内野字内野山〕
 文禄・慶長の役後、勝茂は保護政策下におき、帰化人の陶工相原・金原両名を起用して築窯した。
黒釉陶器の祝盃・徳利(嬉野徳利)を、毎年の年始に一定数納付を命ぜられた。
 内野山は、陶業上は有田代官所轄地であり、その保護は大変厚く、明和期の重茂・治茂のときには業者は
二百余軒に及んだというが、そのために粗雑な飯椀が多く出回った。
●小田志窯〔杵島郡西川登村小田志〕
 慶長期、朝鮮人の陶工によって創始され、勝茂の御用を勤めさせ、陶器を焼成した御用窯である。
 吉茂・宗茂の享保期、同村内弓野において磁器が焼成された。治茂の享和期、陶工淵七右衛門・
溝口市兵衛らも磁器製陶を試み、文化元年(1804)、陶・磁器をあわせ焼成したが、一時衰微した。
文化十年、斉直は、陶工槇口親治・淵常らをして新窯を築き、磁器の焼成を命じた。廃藩時まで御用窯となる。

付:
●伊万里焼
 伊万里港を経て販売された肥前国産の磁器の総称で、有田内外山産の有田焼を主とする。
 ただし、天草に原土発見以降、三川内窯における焼成品は平戸領であるため、特に平戸焼と称して
別に扱っている。征韓の役後、松浦郡有田泉山で発見された原土によって焼成した磁器は、日本における
磁器の創始であり、鍋島家独自の製品のため、他国より陶商・陶工らが往来し、その技術や手法を窺う者が
続出したから、家中窯業の秘密を保ち難くなり、他国者の入国を禁止する制度を取るようになった。
 そこで焼成品を伊万里港一ヵ所に集中させこの地において取引きを行うことを習いとしたので、他国に
おいては、有田焼あるいは鍋島焼の名よりも、伊万里焼として通称されたのである。
 したがって、江戸時代の伊万里は販売市場のみでこの地において焼成された事実は一度もない。
●窯焼鑑札
 以上のように、民窯も含めて行政下に鍋島家内外山の窯場に携わった者に対して「釜焼名代札」という
窯焼鑑札があった。
 佐賀鍋島家では、維新ごろまでは「窯」の字をほとんど用いず、「釜」の字を使用した。鑑札を受けるには
多額の金を要し、特に代官所設置以降は一般民の行政となり、製造諸家事務は、上幸平皿山会所において
一括して扱う定法をおいた。
 鑑札は縦四寸、横三寸五分、厚さ六分の木札で、表面には所掲のように記されている。
裏面には、
一、釜焼に付相渡置候該札運上銀定毎月尖(初)す相納事
   但水確通札者運上銀除相定候
一、親子兄弟たり共貸札舫札(共共)堅停止損札分紛失之儀者可為料代事
一、無礼の者は同職より可申出事
                                             皿山会所
と記され、厳重な監視下におかれ、極秘をもって焼成・生産されていた。
●海外交易
 寛政二年(1790)赤絵町の北島源悟は、当主治茂の許可を得て対馬国に渡り、対馬の当主宗義功の
命により朝鮮需要陶器の専売を許され、のちに有田代官の保護下において対馬国での受け渡し契約を結んだ。
 天保三年(1832)有田の久富与次兵衛は、十代直正の許可を得て、長崎に陶器商店を設置して、
和蘭陀商館との貿易を開いた。
 十一代直大の慶応三年(1867)、上海に出店を設置し、外国人との取り引きが始まった。
両交易ともに財政の健全化に役立った。

<小城藩>〔肥前国−佐賀県〕
●松ヶ谷窯(松香渓・松香谷・松香焼)〔小城郡岩松村字松ヶ谷別邸〕
 天和期、当主鍋島直能が岩松渓に別邸を建築した折り、邸内に設計した御庭焼の窯である。
暫時にして休窯した。
 享保十一年(1726)当主直英が有田より陶土を取り寄せて復興した。大川内窯に類似して白磁染付・青磁、
上絵付を製した。上物で「松ヶ谷」の銘を有する。

<大村藩>〔肥前国−長崎県・佐賀県〕
 『日本陶磁器史論』によると、大村藩領系統は、南川原に始まって木原方面に進入したものと同じ時期に、
さらにこの方面に延長されたのが始まりとされる寛永六年(1629)平戸領内の陶工三之丞が、肥前国唐津の
陶窯を視察したのち、当家に立ち寄り、正保元年(1644)中尾に、同七年稗古場に開窯した。のちに三ッ股へ
皿山役所を設置して谷山を統轄したとある。
●白嶽窯〔彼杵郡上波佐見村大字中尾郷字白嶽〕
 寛永十一年(1634)八月、当主大村純信が開窯し、正保元年(1644)改窯した。
 平戸南部系統で、染付磁器の食器類を焼成し、後期は、全体に錆施釉した器物を製出した。
●中尾山窯(阿手向窯)
 寛文五年(1655)、当主純長は、奉行大村三郎右衛門をして築窯させ、染付磁器を焼成した。
●稗古場(ひえこば)窯(稗木場・比恵古場の両字を用いることもある)〔彼杵郡下波佐見村〕
 天神山・観音山・高尾ノ辻・辺後(へご)ノ谷・向ノ平の五窯の総称である。
 寛文二年(1662)福田九八郎・本石八郎兵衛・福田安兵衛・福田源之丞らの発起によって五窯が開窯した。
当主純長はこれを嘉賞し、製陶者すべてに郡夫役を免除して製陶事業に専念させた。
 当主純鎮の天明元年(1781)に胼焼法を発明し、桃形茶碗を製して純鎮に献上した、さらに長崎奉行へ
贈答したのを契機に、毎年三月三日の桃の節句に献納することを定例とした。同二年、桃形茶碗の製出に
対する功により資本の補助として銭六百貫が貸与され、以後、慶応期に至るまで数々の金穀の保護が
与えられた。
 また嘉永期には、陶窯の水利の便を図って、公費により下波佐見村深川内に大堤を築造するなど、
当主の保護厚く、隆盛を極めたが、廃藩とともにその保護も解かれて、以後は衰微した。


<唐津藩>〔肥前国−佐賀県〕
 唐津焼 の起源は神功皇后の三韓征代凱陣の際に人質となった高麗王子を連れ帰り、松浦郡切木村
大字梨川内小十官者で小次郎冠者と改名させ、小十官者(こじゅうかんじゃ)窯(小次郎窯)を開窯せしめ、
皇后に献上したことに端を発するという。
 文禄二年(1593)、秀吉が名護屋に在陣中、波多郷秦鬼子兵城・陶窯場とともに没収、波多家の陶土を
もって白旗山麓で茶器を焼成したと伝えられるが、白旗山の地は不明である。しかし名護屋御用窯は
ここ指すか。慶長初期、秀吉の退陣とともに廃窯した。
 これ以前の焼造品を古唐津といい、
 ・米量(元享年間)
 ・根抜(建武〜文明年間)
 ・奥高麗(桃山時代)
 と大別する。
 慶長八年(1603)、当主寺沢広高は、旧波多家の陶工を保護し、唐津領内に窯場を再興した。大川原・
田代・焼山上・焼山下・甕屋ノ谷・梅ノ坂・山崎・道園・阿房谷上・阿房谷下・藤ノ川・金石原上・金石原下などが
順次開窯する。
 元和二年(1616)、広高の保護下で松浦郡南波多村椎ノ峯へ開窯、当主乗邑の元禄十三年(1700)に廃窯。
 当時の陶工中里茂右衛門は川三内へ赴き杉林窯を開き、のち御用窯となった。
 慶安期に梅村和兵衛が当主大久保忠職の命でこのころまでに一般市販品とともに焼成されていた御用品を、
主君御用品のみ焼成することとし、椎ノ峯の工人を相知村へ移し、平山上御用窯を築いた。
 元禄十三年(1700)、椎ノ峯の陶工と伊万里の商人の間で裁判沙汰があり、元禄十四年(1701)、新たに
御用窯として茶碗窯を築窯した。宝永四年(1707)まで経営、当主土井利実の享保四年(1719)、椎ノ峯の
陶工にこれを払い下げて民窯とした。
 当主土井利益は、椎ノ峯四代中里太郎右衛門に主命をもって坊主町に御用窯を築かせ、土井唐津が
誕生した。さらに享保四年(1719)、利益は坊主窯を唐人町へ移転し、御用唐人窯を開窯(茶碗窯)皮鯨手の
瀬戸唐津は当窯で焼成された。また、従来は絵付に鉄釉のみを使用したがこのころから呉須も使用する
ようになった。以降、主君は水野家・小笠原家と順次交替したが、廃藩まで御用窯としての唐津焼は継続した。
 年々の幕府への献上品を献上唐津と称するがこれは寛永期に寺沢広高が椎ノ峯の陶工に命じて焼造した
茶碗に始まり、以後幕末まで継続したのである。御留焼であって、窯場には関係者以外の出入りを堅く禁じ、
一国の城を守護するのにも似た規定が設けられていた。特に将軍家への献上品に至っては、多数焼成
した後に、一、二個を選んで、他はすべて打ち砕いたと伝えられる。
 作風は古唐津と異なり、抹茶茶碗・水指・花生・向付等の茶道具のほか、飯碗・大鉢・床置などあり、
青磁白象嵌・白地黒象嵌・染付が有名である。
 最も知名度が高かったものは、安政期の当主小笠原長国の命による雲鶴模様を鉄で象嵌し枇杷釉色など
土白色の高台外張りで、普通より一分五厘余高い大形茶碗であった。後世に伝えられた唐津の名物は
次の通り。
●瀬戸唐津(応仁〜天正)
 尾張瀬戸の手法を模して焼成させた品で瀬戸に酷似する。
●朝鮮唐津(天正〜寛永)
 土・釉ともに朝鮮より輸入されたもの。
●絵唐津(慶長以後)
 赤土に青・黄・黒などが入りまじる釉沢が美しく、鉄絵の草画が施されている。
●堀出唐津(慶長〜寛永)
 これ以前に諸窯で焼き損じて土中に投棄したものを後世掘り出して、珍重した。

<平戸藩>〔肥前国−長崎県・佐賀県〕
 東彼杵郡折尾瀬村の三川内窯で焼成された磁器を平戸焼と総称する。御用窯である。
 主君松浦鎮信(鎮信流祖)の時代を境にして、以前の焼成品を古平戸、以後を新平戸と呼ぶ。御用窯
としては隣接する佐賀鍋島家大川内窯の鍋島焼と対象され、精巧である。
●三川内窯
 慶長期の朝鮮出征の折りに、金羅南道熊川の陶工巨関・傾六など百余名を連れ帰り、城下の一角にこれを
集結して、陶器専業所を設置した。これが高麗町である。平戸御茶碗窯として開窯。熊川手の茶碗を焼成した。
 巨関の子三之丞は、今村姓を賜り主命で中野村字紙漉に築窯したので、平戸焼は一名を中野焼と呼ぶ。
朝鮮風の鼠色を帯びた陶器に近いb器を焼成したが、元和元年廃窯の後、地名皿山に因んで改名したので
皿山焼と称された。これは平戸皿屋窯で、元禄期に廃窯となる。
 元和八年(1622)、当主隆信は領内に陶土を発見し、三川内窯を築き、高麗媐が名工で高麗写を造った。
 寛永十一年(1634)、良土の発見を機会に白磁の製造を試み、同時に青磁の焼成にも成功した。同十四年、
鎮信の許可を得て、慶長八年(1603)の鮮人陶工金久永の旧窯跡(東彼杵郡木原山)で三之丞に木原(きわら)
窯を築かせたが、鎮信は金品田畑などを与えてこれを奨励した。
 製品の多くは下手物だが、後年、平戸青磁と呼んだ朝鮮風青磁は注目に値する。鎮信から如猿号を賜った。
 三之丞の子の弥次兵衛は寛永二年(1662)、天草石を発見、磁器焼製に成功して幕府への献上品を作り、
諸大名の用命を蒙った。以来、代官所が設置され、陶器山の管理一切を命じられて隆盛を見た。
 元禄十二年(1699)、禁裡献上の下命を受け、主命によって器物を焼成、染付・錦手、盛上細工物・彫刻物・
捻物・型物・透彫などの精巧な品を製出した。当主篤信の享保二年(1717)、没後に恩賞を授けられ、子孫は
代々馬廻役を勤め皿山の棟梁を歴任した。
 代官の直轄下に置かれた三川内御細工所には、皿山の棟梁を中心に轆轤部。捻物部・絵師等約二十人が
置かれ、藍絵の磁器を焼成した。幕府・諸家への贈答品のみが製出されたが、紋様が面白くいずれも藍絵で
あって、松の下に唐児が遊び、その唐児が奇数で数が多いほど上物とされた。
 当主熈の天保八年(1837)、池田安次郎は純白で卵殻のような薄手の磁器を製した。
 天保十一年、禁裡献上品を焼成、当主曜の弘化・嘉永期に一層の発展があった。当主詮の慶応元年(1865)、
金襴手錦付二度焼を創成、以後、毎年朝廷へ献上し、廃藩まで継続した。
 海外貿易に関しては当主清の文化元年(1804)、和欄陀人との貿易が開始され平戸領における陶器の
海外輸出が始められた。当主熈の天保元年、長崎商人を通じて珈琲道具の注文を受け、今村槌太郎は
主命を得て平戸焼物産会所を設置し、さらに長崎にも平戸焼物産会所を設けて交易振興を図った。
 家中の経済と御用窯とが大きくかかわった例として尾納州・加賀国大聖寺の前田家、佐賀の鍋島家、
薩摩の島津家などが挙げられるが、いずれも途中でやりくりの苦しさから手を引くに至り、あるいは民窯
へと転落したが、この平戸唐津焼は、松浦家の初代鎮信から明治四年、廃藩時の当主詮まで終始一貫して、
大きな権力と絶えざる庇護奨励が継続された。これは海外貿易を背景とし、経費面で大いに恵まれていた
からであろう。その作品は、徹頭徹尾精美一点張りがあることを、高く評価された。
 しかしその反面に、一個の芸術作品としての鑑賞に堪えうる迫力を無にしてしまう趣きがないではない。
細工物といわれる造形美を追求した結果、そうなったのであるから、これはやむをえない。

<熊本藩>〔肥後国−熊本県〕
●高田(こうだ)殿窯(八代焼)〔八代郡高田郷奈良木村〕
 寛永九年(1632)、豊前国小倉の当主細川忠興の下で上野焼に従事した喜蔵は、忠興の子の忠利が
当地へ国替えの際に同行し、八代城近くに御用窯を築いた。
 当主綱利が万治元年(1658)、これを豊原村字平山へ移窯、平山焼とも呼ぶ。喜蔵・藤四郎・粟四郎三代
ころまでは刷毛目・灰釉の三島・雲鶴手などの朝鮮風が主で、絵付に白色、まれに黒色の象嵌を施した。
概して薄造りであり、素地は赤褐色、青・黒釉を用いて古帖佐・高取・朝鮮唐津に類似するので肥後薩摩と
呼ばれるものは、このころの作である。
 当主宣紀の正徳年間に黒白嵌土の法が案じられた。延享期の当主宗孝は来城した久我大納言に楽焼を
御覧に入れ、同大納言の手を経て、桜町天皇の叡覧に供された。廃藩とともに藩の保護を失い、衰微した。
 銘印は、
・喜蔵直径
 六代忠兵衛:東(捺銘)
 七代才兵衛:才(捺銘 楕円・二重丸)、豊(捺名)
 八代現工・庭三:庭(彫刻銘)、八代(捺名)
・分家上野太郎助
 五代源太郎:源(捺銘)
・他の分家
 七代弥栄:東(捺銘)、彌(銘款)
 九代次郎吉:冶(捺銘)
・上野才兵衛門人
 吉原二分:八代(捺銘)
 また、将軍への献上品を特に高鮮焼と呼び、日本三献上の一つに数えられた。常例、御用と呼ばれ、
監視厳格で陶片すら家中に没収された。十数種の焼成物中、壺が最も多く、献上壺のすべてが暦手
(こよみで)である。朝鮮土・釉を用いるためにこの名がある。分窯に松尾焼(飽託郡松尾村)があった。
 当主綱利の安永期、高田窯喜蔵四代藤四郎の弟である梶右衛門が分家し、その子が丹冶に築窯して
家中からの俸禄を受けた。
●小岱焼〔玉名郡南関郷宮尾村字竜ノ原〕
 創始に二説ある。
 (一)文禄役に出陣の際、加藤清正が連れ帰った朝鮮人陶工が開窯し、細川忠利の入封以後保護され、
製陶を命ぜられた。
 (二)細川忠興が、丹後国田辺から豊前国小倉を経て肥後国熊本へ国替えされたが、田辺貧ノ小路の
陶工源七を同行せしめ、当地に至って、牝小路又左衛門と改名させ、築窯以後代々御用を賜った。
 焼成色はすべて細川家に納め、文化三年(1806)ごろから三分の一を民間に販売した。
 銘印の古いものは無印か箆書である。松風・五徳・牝小路・竜ノ原焼等とも称され、「葛城」「小代」「牝小路」
「松風」「五徳」などの刻銘がある。

<宇土藩>〔肥後国−熊本県〕
 寛政三年(1971)、当主細川立之の保護下で有田の陶工を招いて築窯。白釉に藍色の装飾を施し、さらに、
肥前および中国の磁器を模倣焼成し、文政期には海内随一と賞された。


<鹿児島藩>〔薩摩国・大隈国−鹿児島県〕
 薩摩焼 は両国内で焼成された焼物の総称であるが、一説には薩摩錦手を指すこともある。また、古薩摩の
「古」とは薩摩焼の場合、比較的若い時代を意味し、島津義弘・家久・久光時代に帖佐・加治木御里・
竪野殿窯の初期の製品を指す。いずれも朝鮮人が来朝して従事した作品である。そのため、築窯状態、
成形、施釉、焼成等の技術のすべてが朝鮮風である。朝鮮の陶磁との判別が難しいものが多いのは
当然であるが、その主体は茶湯道具類であるといえる。
 御手造りの創始は義弘にあり、銘款捺印することで彼に始まる。薩摩の「萬」字印と称する銘款は
「萬」「義」字印の二種あり、丸・角形等の印形中に「萬」字が捺してある。御判手の代表作品が
御判手茶碗である。義弘は帖佐窯を訪ねて種々の意匠を授け、あるいは木脇嘉右衛門に命じて
茶入・茶碗を造らしめた。その精巧なものには自ら作品の一々に捺印して愛玩し、また家臣に分与した。
藩主御手判あるいは御手焼の窯としては、
義久・義弘:帖佐窯・加治木御里窯・苗代川窯の白薩摩
家久・久光:竪野殿窯・苗代川窯
重豪:竪野殿窯
斉彬:磯御庭焼(集成館・綿谷窯)・楽焼
が特に重視される。
●白薩摩と唐千鳥印
 薩摩焼開窯当時は、藩内に白土はなく、朝鮮より胎土・釉薬ともに取り寄せて帖佐窯で白陶を焼成した。
これを太白焼という。
 慶長十年(1605)、苗代川窯の陶工朴平意が、領内で白土を発見。これを義弘は熊川の土に彷彿すると
大いに嘉賞した。
 家久のときの竪野殿窯は、諸家への贈答品および調度品に限定し、外部への譲渡は許可せず、
御留焼であった。
 さらに光久のとき、不合格製品の一部に標示としての「唐千鳥」印を刻して、一部譲渡を許した。以後代々、
制度化して継続されたが、のちに陶工らの私腹を肥やす根源となったため、改めて精巧品にもこの印を
刻したことがある。御用窯以外の民窯でも、白陶は御法度の焼物であって、製造・販売とともに堅く禁じられた。
やがて、当主斉彬の安政期になると、御用窯・民窯ともに白物譲渡の制限が解かれ、この印もなくなってゆく。
この御法度制度によって、各民窯では黒釉薬の研究が進められ、白薩摩に対する御前黒(ごぜんぐろ)が
誕生することとなった。
●御前黒
 竪野殿窯初期・帖佐窯・加治木御里窯にて焼成された上手の黒物陶器を称する。
 漆黒釉がかかって螢光を有し、黒褐釉・紫薩摩とは別に区分され、さらに後世、串木野村字鍋山の
原土釉薬するために、鍋山黒・薩摩黒と称された。斉彬時代の磯御庭焼には、上手物が多く見られる。
●帖佐窯御庭焼〔姶良郡帖佐村字宇都〕
 文禄四年(1595)島津義弘は渡鮮の折り、多数の朝鮮人陶工を連れ帰った。慶尚北道高霊具郡星山に
居住して陶業に従事していた。金海は、神之川へ上陸した。義弘八月に栗野城に帰り、十二月に帖佐城に
移転したが、同時に金海の一族を招き、宇都館西北隣に島津家御庭焼として開窯させた。
 金海は朝鮮より持参した原土・釉薬によって高麗伝統の製陶法を伝えた。義弘は金海の巧を賞して士族とし、
星山仲次の名を与えした。
 慶長十二年(1607)の加治木への移城に、仲次も従って土器園へ移住した。廃窯すなわち開窯である。
義弘は、帖佐城に入城以来、十三年間、朝鮮、伏見、関ヶ原・桜島と東奔西走したため、自ら指揮したのは
総計数年間に過ぎない。
 代表的なものに、朝鮮から持参した原土・釉薬によって焼成した火計茶碗と義弘の意匠を授けて作らせた
御判手茶碗がある。
 製品は三つに大別される。
(一)飴・黒褐釉:茶碗・茶入・皿・花瓶など、男性的で胎土よく、焼締まり緻密な不等質陶胎を成し、
釉が厚くかかり、重量がかなりある。紫薩摩という。
(二)蛇褐釉:花入・水指・鉢など。素地に青・黄・黒釉を重ねて厚くかけ、その上に白色凝釉の斑点を有する。
堅焼である。
(三)白釉:茶碗・香炉・高杯などの太白焼。白高麗とも称する。手法に十八種類あるという。鈍い白色釉が
かかっていて、作りも大振りで武骨(唐千鳥印参照)だが、刷毛白三島手・宋胡録等は精巧である。装飾の
ない無地のものが多く、まれに素朴な鉄絵がある。
●加治木御里窯〔姶良郡加治木〕
 慶長十二年(1607)、加治木城に入城し、同十六年隠居した義弘は、土器園より城北にある
御里仁礼林左衛門の宅地に星山仲次を移窯せしめ、御庭焼とした。
 太白・蛇蝎・黒褐釉等陶器・b器を焼成。御判手茶碗は義弘が御判を押したもので、優秀品は座右に置き、
他は破砕し、茶碗・茶入の上手物は家中の愛好家に分与した。
 義弘の兄である富隈城主義久の御手焼に御鷹野茶碗がある。御鷹狩りの際に馬上で飲むための茶碗で、
馬上杯と呼ばれる。元和六年(1620)、当主家久は義弘遺命によって廃窯した。
●竪野殿窯
家久は元和六年(1620)、父義弘の遺命によって加治木御里窯を廃窯したが、のち殿窯として保護奨励した。
これは家久の直接の事業であって、数奇屋用品を造る陶業である。焼物方主取役が長となり、
御書院茶道方の支配であった。
 慶安元年(1648)、家久の子の光久は、陶工有村久兵衛に托し、京都御室窯の京焼製陶法を習得せしめ、
帰国後に焼造させた。のち江戸へ赴いて光久の上覧を仰ぎ、碗右衛門と改名して再び京で楽焼や
唐物茶入手法を学んだ。星山仲次の遺法により微細な貫入をもつ白陶を多く製山(唐千鳥印参照)。
 このころより朝鮮風の豪壮さから、日本的な線描も柔らかな薄手造りとなってゆくが、さらに仁清の出現に
より陶工を派遣し、伝授された手法を勘案して、碗右衛門の純日本風絵付が完成した。
 薩摩錦手と呼ばれるのは、藩内出身の狩野派画工木村探元を中心に製され、仲次の孫である星山嘉入が
作った陶器に探元が描いたものを最も珍重する。禁制品御留焼として保護されたことによって、薩摩焼の
代称とまでなった。
 寛文期の陶工田原友助の子孫次郎左衛門は諸国を行脚中、土人形に目を止め、その手法を習得して帰国、
種々の置物を製出し竪野焼の特色を一変させた。
 当主継豊の享保期に琉球国の陶工師仲村渠致(なんかだかれ)真が渡来し、親しく陶法を交換した。
 延享元年(1744)、嘉入の子嘉磧は、継豊の御書院茶道役を命ぜられ陶業を監督した。当主宗信・重年の
貞享〜天明時代、家中の保護は次第に衰えたが、宝暦五年(1755)、当主重豪がこれを嘆き保護奨励して
自ら新意匠を出し、ために陶業の発展は目覚しくなった。
 重豪の明和期に塩屋村平佐窯の陶工川田平佐・本田源之助を家中に招き、乾山風白磁の製造に従事させた。
のち両人が竪野窯に移ったため平佐焼は廃窯した。
 当主斉宣は安永五年(1776)、保護の手を伸ばし、再び平佐焼が復興。寛政五年(1793)、家中は竜門寺の
陶工川原芳江を招き、錦手の製造のため特に花倉窯を築いたが、寛政十年十一月、芳江の没後廃窯した。
斉宣は陶法を工夫し、御用品は二度焼きしてすべてに貫入を造った。
 文政六年(1823)、独人シーボルトが長崎に上陸、薩摩焼を激賞した。重豪は、一層の品質向上に努め、
陶工仲兵衛が白陶に金粉他の雑彩をもって紋様を成す金襴子の製法を開発した。当主斉興の文政十年
(1827)に、隠居した重豪(栄翁)は京都五条坂の仁阿弥道八の元に重久元阿弥を遣わし、陶法伝の授を
受けさせ、帰国後京焼窯を設置、道八の原料を用い、金焼付に成功した。仲兵衛は独特の金襴子の
製出に成功した。
 文政十二年、栄翁は経世家佐藤之部淵に従って海外貿易の振興を図らせた。当主斉興の天保九年(1838)、
脇業として稲荷殿窯が築かれた。
 嘉永六年(1853)当主斉彬は集成館を設立し、各種の工場を集成して陶業を興したため竪野窯も次第に
衰微し、義弘の遺命に始る歴代当主の保護に差はあったものの、実に二百五十年間、中断なく続いた殿窯も、
忠義の代に至ってついに廃窯そなった。

●磯御庭(いそのおにわ)焼−集成館御庭焼
 嘉永六年(1853)、磯の別邸内に集成館が創立され、陶器の釉法の改善と磁器の創始が計画された。
安政二年(1855)六月、苗代川窯から錦手方の朴正官を招き、南京山に藩設工場を設け、焼成法と絵付を
指揮させた。正官は錦手部を担当したほか磁器部に沈寿官を置き、自らの発明も加えて一般大衆向けの
大皿・丼、鉢等の日用雑器と家中の物産として南京焼と称する輸出向けの作品、珈琲茶碗・花瓶・
洋食器などを焼成した。
 集成館御庭焼は当主の手慰みとしての御庭焼を脱し、むしろ家中の経済政策の一端として設置された
感が深い。
●錦谷窯御庭焼
 磯の別邸付近の猫神(ねこがみ)祠近くに、安政四年(1857)、斉彬自らつれづれの慰みに開窯、
白砲弾丸写しの茶碗を焼成し、狂歌を箱書して近親者に贈った。
●渋谷窯御庭焼〔江戸渋谷別邸〕
 嘉永期に斉彬は、国表から土を取り寄せて、薩摩焼に倣って造らせた「宗中」銘がある。


 義弘は文禄四年(1595)八月二十八日から十二月末まで栗野城に居住、朝鮮から連れ帰った金海が
日本上陸後にはじめて栗野村に栗野窯を開窯したとの説があるが、時期・窯跡など不祥である。
 もし確証を得れば、これが薩摩・大隈国における島津家御庭焼の創始ということになろう。
●苗代川焼〔日置郡下伊集院村苗代川〕
 文禄四年(1595)、義弘に連れ帰られた朝鮮人陶工四十三名は串木野窯を開窯したが、ここは義弘の
居城から遠く離れていたために保護されることがなく、さらに慶長六年(1601)ころ、村民の狼藉にあって
やむなく閉窯した。彼らが苗代川に避難したことが、義弘の伝え聞くところとなり、別に屋敷・食録を与えて
保護した。
 当時国内での白土検出に努め、数ヶ所で功を見て義弘に献じ、加治木御里窯で試陶そた朝鮮人陶工
朴平意は、慶長八年(1603)、苗代川に陶場を設け、頭領として朝鮮熊川に類似する純白透明な茶碗を
焼成して義弘に献上した。
 義弘自ら意匠を授け、意に叶ったものに「義」字印を入れたが、これを「苗代川の白薩摩御判手」という。
平意は、他に朝鮮より伝来した技術による刷毛目・三島手・宗胡録等の茶碗を製した。
 薩摩焼の素地の主要原料に指宿(いぶすき)土があり、慶長十九年、義弘の命により、平意は揖宿
(いぶすき)郡十二町村の白粘土のほか種々の原料を発見したが、幕末の当主斉宣のときに尽きた。
 寛文六年(1666)、当主光久は市来村の前山を焼物薪炭用として与えたが、経営はまったく民間に任せた。
 朝鮮人陶工の社会的地位は低く、「留帖」(延宝四年=1676)によると、特に苗代川帰化人関係者は、
帰国はもちろんのこと、外部への出入を禁じられた一種の閉鎖社会内で製陶に従事していた。やがて、
人口の増大を理由として、当主綱貴の宝永元年(1704)十月、当時、未開の原野であった笠原野へ将来の
産業の発展を期して戸数三十四、男女六十四名を移住させ、笠野原(かさんばい)窯を築かせたが、
水質が悪く飲料水乏しく、常に雨水に頼り、また原土・釉薬を得ることも困難だったので数年後に廃窯した。
しかし、宝暦十一年(1761)に至り再興開窯し、陶工数人がその命脈を受け継いだ。
 延享・寛延・宝暦の約二十年間は休窯している。
 宝暦十一年の再興時は、重豪が当主であった。明和〜寛政の薩摩焼全盛期に、重豪の奨励があった結果、
朴正官が当窯に錦手がないのを見て家中に申請、文政十年(1827)、家中の事業として錦手部が設置され、
弘化元年(1844)、正官は錦手部主取役を命ぜられ、安政二年(1855)六月、当主斉彬の招きで集成館工場で
画法・焼方を指揮、安政三年、苗代川へ戻った。
 同四年、斉彬の命で苗代川磁器支部として御定(おおじょう)式(南京窯)を築いた。
 慶応三年(1867)、仏国大博覧会開催のとき、当主忠義は佐賀の鍋島家とともに陶器部門への参加を
果たした。正官は百数十日がかりで錦手大花瓶を作製、出品した。
 また弘化期に姜早丹・姜慶丹が、茶壷に杢目形を彫刻することを案出、万延期に、陶工玉峰・林が従事した。

●竜口坂下(たつぐちさかした)窯〔姶良郡加治木日本山竜口坂下〕
 慶長十二年(1607)、義弘は、帖佐城より加治木に移城、星山仲次一族も同行し、竜口坂下土器園に移窯、
同十六年、義弘は隠居後、加治木御里窯を開窯し、仲次らを移したが、のちに民窯となった。
 寛文十年(1670)、能仁寺の建立によって土器園が排除された後、北方山中に移窯したが窯場は不明。
●田之浦焼
 承応元年(1652)、陶工山元小右衛門によって創窯された後、加治木窯へ移り、やがて廃絶したが、当主
忠義の文久三年(1863)、薩英戦で、集成館・綿谷窯場が消失、慶応元年(1865)、家中の両窯の工を集めて
築窯したが、竪野窯および斉彬のときの殿窯の延長である。
 廃絶時、家中の保護は停止された。
 外国輸出に力を入れ同三年、仏国博覧会に朴正官の錦手花瓶が出品され、外人の激賞を受け、輸出は
ますます隆盛を見た。製品は長崎・横浜へ送り、外人の手を経て輸出された。また維新前後、江戸に
薩摩焼の素地を取り寄せ、盃・猪口・燗徳利・小皿・急須等に江戸名所・花鳥・美人画を絵付して江戸薩摩焼
のように称して販売されたが、これは江戸在住の陶工師の苦肉の策であったのに過ぎない。


●山元焼
 寛永八年(1631)、当主家久の次男忠朗が加治木島津家として分家し、同時に田之浦の鮮人陶工芳珍の子
である小右衛門を招き、城下の山元に開窯した。御用窯であるが、日用雑器を主に焼成した。 
 小右衛門の子の山元碗右衛門が、加治木小山田高崎の地へ寛文四年(1664)に移窯したために廃窯、
以後、純然たる民窯となった。これを竜門寺焼と呼ぶ。
 竪野殿中の花倉窯に従事していた陶工川原芳工の子孫に、芳平・芳右・芳光・芳寿・芳尋・芳衛の陶号を
もつものがおり、多くの作品をなした。
 なお、製作年代は不祥であるが、徳川家紋章入の錦手六角皿に、金字で「松平薩摩守」と書銘あるものが
現存しており、徳川家への献上品と思われる。
<対馬藩>〔対馬国−長崎県〕
●釜山窯(ふざんよう)〔朝鮮国慶尚南道釜山倭館〕
 日朝間の陶器交渉は、秀吉のころより、朝鮮に近い航路を持つ宗家がこれに当たった。慶長十四年(1609)、
交易を規定した「己酉条約」を結び、日本国としては、主として宗家が参画した。 
 寛永十六年(1639)、当主宗義成は、幕府の命を受け朝鮮政府へ依頼し、釜山に茶碗窯を築窯し、
享保二年(1717)廃窯するまで約七十余年間継続した。その間、
 将軍家:家光・家綱・綱吉
 朝鮮李朝十七年:孝宗・顕宗・粛宗
 対馬藩主:義成・義真・義倫・義方
という関係になる。全盛期は義真のときである。
 当初、将軍家は宗家を通じて朝鮮より茶碗を求めたが、思うにまかせず、義成が見本用の茶碗を造って
江戸より釜山へ送り、製陶工の東業府に依頼して、巡察使に命じ、河東・晋州の土と陶土をもって焼成した。
 折りしも古田織部の全盛期であるために、織部好みが全般を支配し、日本から示した見本を「御本」、
御所丸を「古田高麗」と称した。
 寛文末期に焼失する前の倭館は、現在の古館に存在したが、新館は延宝三年(1675)、現在の釜山港に
移築した。石垣と濠がめぐらされた新館に、正保元年(1644)燔師として対馬国の橋倉忠助が赴き創窯した。
 当時、日本唯一の海外居留地であり、朝鮮としては国内事情が日本に漏れるのを極度に恐れて警戒し、
倭館内部に日本人を居住させ、外部を朝鮮人が守護した。したがって、対馬から送られた燔師は、彼岸と
盂欄盆に古館への墓参と鶉狩に草梁まで出かけること以外、外出禁止の状況下で焼成作業にあたった。
 前期(代表燔師は慶安四年=1651渡航の渡辺伝冶)は織部好み、後期(代表燔師は寛文五年=1665
渡航の阿比留茂山・元禄三年=1690渡航の松村弥平太)は遠州好みを焼成した製品は、幕府への献上
および藷家への贈答と当主の自家用に限られた。
 初期の作品に「高麗茶碗」の箱書があるが、高麗とは時代を指すのではなく朝鮮を指す。
 常に製さ産出数が多く、現地での多大な陶土・燃料を供給する要望に応ずることが叶わず、義方が当主
であった享保二年(1717)に廃窯した。 
 なお、釜山窯と呼ぶなかに、当初の倭館以外で作られたものもあるが、ここでは倭館のみにとどめておく。
●対州窯(対馬焼)
 家中での窯業が名を馳せるは享保期、義方のときであるが、事実は、宗家の遠祖が鎌倉期に来島して
定住する以前、島主であった浦上家の時代に始まり、祭器・土器を焼成し、のち志賀焼陶工となった。
対馬焼は、小浦皿山・久田・志賀・立亀茶碗・阿須・小浦の六窯の総称で、焼成品は最も朝鮮焼に
近いものである。本流はあくまでも御用窯であったが、それぞれに一興一廃の運命をもち、御用窯が
民窯に移行、あるいは休窯が続いたりして何度か消長をみた。
 なお、対馬焼と認定される、浅い鉢に上記の押印を有するものがあるが、作者および年代は不祥である。
●志賀焼窯〔厳原(いずはら)字志賀〕
 義成が当主であった正保期に、主に茶碗を製し、絵御本に類似する。高台内に彫刻があり、安南風の
渋茶がかかったものなどがあって、遠州好みである。
 当主義方の享保十一年(1726)、平山意春が御用窯として興した。
 寛政三年(1791)三月、当主義功は有田の陶工をして新渡茶碗の窯を志賀に築いた。この新渡とは、
このころ中国染付が長崎に渡ってきたものを称する。染付の製造は、このころ以降である。
 寛政十三年(1801)正月二十八日廃窯し、以後一時民窯となったが、文化期の当主義功が再びこれを
復興した。名物高麗茶碗を他家より借り集め、画工に写させて『高麗茶碗年鑑』を作成した。陶工吉田又市を
中心に、本井戸・古伊羅保・ととや・判事・三島・雲鶴狂言袴等の二十種ほどを模写焼成し、その後、
再度民窯となった。後世、「志賀」「シカ」の印がある。
●阿須窯〔厳原字阿須〕
 安政期(一説に弘化、嘉永ごろとも)、当主義和は、浅原屋敷付近に御用窯を興し、肥前の陶工又市系統
のものを焼成した。途中より御庭焼とした。
●立亀茶碗窯〔厳原立竜〕
 開窯期は不祥である。当初、宗家の日用品の磁器を作る目的で築窯した。 
 染付・白磁等の土味釉は朝鮮風で、竹にふくら雀の絵には元禄ごろの日本風をみる。
 陶工順太郎作の染付水指の底の書銘に「立竜順製」がある。
●小浦皿山〔厳原小浦皿山〕
 窯の存在期は不祥である。高麗青磁に近いものや、古唐津風青磁などを焼成した。

Copyright (C) ともさんの焼き物・骨董紀行  All Rights Reserved 
















inserted by FC2 system