旅するところ、焼き物・骨董あり!                                                                       <<<焼き物・骨董情報サイト>>>

トップへ  当サイトでは、筆者が、世界中を旅したところで集めた焼き物・骨董品を、
エピソードと共に、その起源や、特徴を、ご紹介しています。意外な場所に、
意外な、お宝があるものです。画像と共に、うんちくも、お楽しみください。 

太武朗工房作・江戸切子のぐい呑み

太武朗(タブロー)工房作、江戸切子(えどきりこ)の色被せ硝子ペアぐい呑みです。









ぐい呑みの大きさは、径:5cm、高さ:6cm、重さ1つあたり60gで、共箱付きです。

ルリ色と、アカ色のペアぐい呑み ですが、あまり見かけないデザインですね。

箱書きに、「色被せ硝子(いろきせガラス)」とありますが、色被せ硝子とは、違った色の複数の層からなるガラスで、江戸切子の技法やサンドブラストによって表面加工を施すことにより、その研磨加工部分が無色ガラスとなり、美しい工芸ガラスとなります。

このぐい呑みの場合、胴部分は、切込みではなくて、平面カットが施され、高台部分には、切子の手法が使われています。

太武朗工房は、日本硝子界の第一人者岩田藤七さんによって創られた岩田工芸硝子にて修行された東太武朗さんによって、1989年に設立された会社で、伝統技術を継承し、熟練した職人により「使いやすい」「飽きない」ガラス製品をひとつひとつ手造りしています。

東京カットグラス工業協同組合の組合員リストでは確認できませんでしたが、2名の伝統工芸士(平山紋治さん、木村泰典さん)の作品も取り扱っている工房です。

江戸切子(えどきりこ)とは、東京都江東区、墨田区を中心とした地域で作られている、カットガラス工法のガラス工芸・細工で、2002年に、経済産業省の伝統的工芸品に認定されています。

天保5年(1834年)、ビードロ屋の加賀屋久兵衛が、江戸大伝馬町で金剛砂を用いてガラスを彫刻 し、切子細工の技法を工夫したと伝えられ、これが我が国におけるカットグラスの始まりとされています。

幕末当時は、長崎から、蘭学と共に入ってきた透明な鉛ガラスに彫刻したものでしたが、明治期以後は、薩摩切子の消滅による職人と技法の移転や、イギリス・アイルランドのカットグラス技術導入により、 江戸においても、色被せ(いろきせ)ガラスの技法・素材も用いられるようになっています。

色ガラスの層は、薄く 鮮やかなのが特徴で、加工方法も、伝統的な文様を受け継ぎつつ、手摺りからホイールを用いたものへ移行していきました。

現在は、東京カットグラス工業協同組合(加盟組合員78社程度)を中心として、和の特色と個性を反映した日本のカットグラス・ガラス工芸として普及・生き残りを図っています。

江戸切子の特徴ですが、まず、切子(きりこ)とは、ガラスの表面に、金属製の円盤(ホイール)や砥石などを使って、さまざまな模様を切り出す技法で、切子の語源は、硝子を削った時に出る粉で、切り粉→切り子と変化したと言われています。江戸切子はこの技法によって作られています。

江戸切子の文様としては、矢来・菊・麻の葉模様など、着物にも見られる身近な和の文様が、伝統模様として受け継がれています。

  
      菊繋ぎ模様           魚子(ななこ)模様

江戸切子の価格は、ぐい呑みでいうと、数千円から数万円台まで差があります。素人目にはそれらの違いの判断はできませんが、これは、使用する素材がソーダガラスであるか、高価なクリスタルガラスであるか、などの素材の違いや、文様の深さ、手作業で下地を作る宙吹きか、それともたくさん作れる型吹きかなどにもよって、左右されるそうです。一般的に切り込みの多いものが、高価ということになりますが、価格に捉われず、自分が好きなものを選ぶのが良いのかもしれませんね。

★ 江戸切子と薩摩切子の違い ★

日本においては、伝統的な切子といえば、この2つになりますが、その違いを追ってみましょう。

薩摩切子まず、薩摩切子は、藩主島津斉彬 (1809〜58)の手厚い保護のもとに、藩の事業として製作されたもので、当時とし ては最高の研究と開発の結果出来た美術工芸品です。

これに対して、江戸切子は、いわば庶民の手によって、その採算の枠の中で製作されたもので、買ってくれるお客さんの懐具合と相談した庶民の工芸品ということになります。

発祥は、江戸切子の方が少し早くて、天保5年(1834)とされますが、庶民の工芸品だった経緯から、明治維新の影響も受けず、後に、西洋の技術や、消滅した薩摩切子の職人を受け入れ、今日まで、180年近くも、途切れることなく継承されている貴重な伝統工芸品ということになります。

一方の薩摩切子は、第10代薩摩藩主島津斉興によって始められ、11代藩主島津斉彬によって、集成館事業の一環として、100人を超える職人規模で運営されていましたが、藩主島津斉彬の死(1858)と、薩英戦争 (1863)の戦火によって、ガラス工場は焼滅し、この技術は、約20年で途絶え、その伝統を伝える ものはなくなりました。

発祥当時の江戸切子は、透明・無色な硝子(透きガラス)に、手摺りで細工を施したものだったのに対し、薩摩切子は、より細かい細工(籠目紋内に魚子紋等)や、色被せと呼ばれる、表面に着色ガラス層をつけた生地を用いたものが多く、またホイールを用いた加工が挙げられます。

江戸切子は、後に、被せガラスも使うようになりますが、色ガラスの層は、薄く 鮮やかなのが特徴で、一方の薩摩切子は、色を厚く被せた素材を使うため、切子が「ぼかし」と呼ばれる半透明な淡い感じの仕上がりとなっています。

現在、薩摩切子は、1985年くらいから、復刻に成功して、製造されていますが、技術が継続していませんので、国の伝統工芸品には指定されていません。「薩摩切子」とは、幕末時代に、現在の鹿児島市磯地区での集成館事業で生産された切子のみということになり、現存するものは少なく、「まぼろしの薩摩切子 」と呼ばれています。
                                                (記 : 2013年3月3日)

追記 :

同じく太武朗工房作、江戸切子のぐい呑み(紫)を入手しました。











大きさは、径:7cm、高さ:7cmほどで、共箱付きです。

色被せガラスの作品で、紫色をしています。江戸切子の場合、色被せガラスは、まず、薄く、色の付いたガラスを型に入れ、その後、透明なガラスを適度の厚さに内側に入れますので、外側に、薄い色ガラスの膜のようなものができ、その後、カットするので、カットした部分が、白くなります。

カットされた部分は、そのままでは、摺りガラス状で、透明にしたい部分を研磨して、透明に磨け上げます。

このぐい呑みの場合には、梅紋と、底のカットは、磨かず、摺りガラス状になっており、胴部分のカットは、磨き上げられていますので、透明になっています。

色は、瑠璃色(青)は、酸化コバルトを、赤色は、を、このぐい呑みのような紫色は、二酸化マンガンを透明ガラスの中に調合することで生まれます。

このぐい呑みは、少し大きめのぐい呑みですので、焼酎を飲むのにも適していますので、焼酎用として、気軽に使いたいと思っています。

                                              (追記 : 2013年7月22日)

Copyright (C) ともさんの焼き物・骨董紀行  All Rights Reserved 
















inserted by FC2 system