岸
園山作(園山窯)の萬古焼(ばんこやき)の茶碗です。
大きさは、口径約10cm×高さ約6cm 程度の小振りの抹茶碗です。
二代 岸園山(耕次)さんは、昭和2年生まれで、すでに、ご高齢ですが、四日市市に在住され、萬古陶磁器
コンペの審査員等をしておられ、活躍されています。
この作品には、ちょっと引っ掛かる部分もあったのですが、栞を信じて、買ってみました。(笑)
萬古焼では、再興萬古の森有節、千秋の品物が、時々オークションで見掛けられたので、がんばってみましたが、さすがに人気が高くて、落とせなかった事情があり、近年のものを手に入れました。
森千秋の絵皿
萬古焼の歴史について、萬古陶磁器共同組合のホームページから、引用させていただきたいと思います。
■ 萬古焼の始まり
室町時代に、楽市楽座の自由商業都市として栄えた桑名の有力な回船問屋、沼波家[ぬなみけ]は、陶器専属の問屋で、当時茶碗として有名だった伊勢天目[てんもく]を扱った。その沼波家が江戸時代に、作り始めたのが萬古焼である。屋号の萬古屋から命名した「萬古」「萬古不易[ばんこふえき]」の名は、何時の世までも栄える優れた焼き物という意味であり、伝統は現在に受け継がれている。
■ 弄山[ろうざん]による開窯
沼波家の跡取りとして享保三年(一七一八)に生まれた五左衛門弄山[ろうざん]は、幼いころから茶道に精進した茶人で、その茶趣味が嵩じて朝日町小向[おぶけ]に萬古焼を開窯したのは元文年間(一七三四〜四〇)のことである。陶法は、京焼技法に習い、特に尾形乾山[おがたけんざん]に多くを学んだ。内外の茶碗の写し物をはじめ、華麗な色絵を主体とした優美な作品を生み出した。古萬古と呼ぶ。
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江戸進出
弄山[ろうざん]によって始まった萬古焼は、陶器問屋沼波家の今川橋詰にあった江戸店で売り出された。
当時の焼き物の中にあって際立った斬新さの古萬古は、有産階級や知識人の間で人気が上がり、遂に、将軍家からの注文を受けることになると、江戸小梅の地に窯を設け、宝歴年間(一七五一〜六三)には、弄山夫婦も江戸に移った。これを江戸萬古という。
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古萬古・銘印[めいいん]
古萬古は、「萬古[ばんこ]」「萬古不易[ばんこふえき]」の印を押したが、それは沼波家の屋号に俳聖芭蕉
[ばしょう]の「不易流行」の考えを加味したものである。萬古印は、裸のものと小判型のものの大小があって、字体が微妙に異なる。全て楷書である。他に異形の篆書体[てんしょたい]のものがあり、茶陶[ちゃとう]の写し物に多く用いている。原則として、古萬古は有印であるが、中に無印のものも存在する。
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萬古焼の再興
古萬古が後継者のないままに廃絶してから、三〇数年後、桑名の古物商、森有節[ゆうせつ]、千秋[せんしゅう]の兄弟によって、古萬古ゆかりの朝日町小向[おぶけ]で再興された。手器用な兄弟の工芸的手腕を見込んで、弄山の子孫が勧めた為と伝えられる。兄の有節は木工を得意とし、弟の千秋は発明工夫の天才であった。兄弟の協力によって天保二年に築窯し翌年(一八三二)に開窯した。
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再興萬古の工夫
古萬古の時代に比べて、世情は大きく変わりつつあった。抹茶趣味に代わって煎茶が流行し、外国憧憬より国粋を尊ぶ国学が盛んとなった。それに応える為に、華麗な粉彩[ふんさい]による大和絵の絵付けと、煎茶に必要な急須を木型で成型する法を考案して、東海道の旅人の土産物として売り出した。その特異性は大人気となり繁盛した。桑名藩主はこれを保護奨励した。
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有節萬古・銘印[めいいん]
几帳面な有節は、自身で銘印を刻んだと伝えられる。素人ながら印は完璧である。古萬古の印を踏襲、「萬古不易」、丸型篆書[てんしょ]の「萬古」があるが、字体が優しい。普通の「萬古」印は、裸印は少なく、中型の小判印を多用し、「摘山[てきざん]」「有節]「萬古有節」があり、「日本有節」の印は、海外への発展を希求[ききゅう]したものだ。千秋には別種の印がある。
初代森有節のもの 3代有節のもの 森千秋(陽楓軒千秋)印
3代森有節 箱書き
■ 四日市萬古の始まり
四日市には、有節萬古より前の文政一二年(一八二九年)に信楽焼風の雑器窯が東阿倉川唯福寺[ゆうふくじ]に始まっていた。海蔵庵窯[かいぞうあんがま]という。後に、ここに来て焼き物の手ほどきを受けた末永の庄屋山中忠左衛門は、有節萬古に憧れていた。嘉永六年(一八五三)には、邸内に窯を築いて、有節萬古の研究に本腰を入れた。その二〇年に及ぶ苦労が四日市萬古の始まりである。
■ 現在の萬古焼
現在、紫泥急須や土鍋がその代表とされる「萬古焼」。その発祥は江戸時代の中期(1736〜41)、桑名の豪商・ぬなみろうざん沼波弄山が鎖国という閉ざされた時代であったが故に思い抱く、海の向こうの世界を空想で描いた異国的な陶器でありました。後世に受け継がれ永続することを願い、弄山自身が名付けました。焼き方にも形にもとらわれない自由な発想から生まれた焼き物、「萬古の印があることがいちばんの特徴」と言われるほど形は多彩。現在では、四日市市と菰野町を中心に、窯元数は100社以上にのぼります。
土鍋は萬古焼の代表する商品です。生産高は国内の80〜90%近くを占めています。街中で見られる国産品
土鍋のほとんどが、萬古焼と言っても過言ではないでしょう。近年は、大きさや形状も様々に増え、商品目を
上げれば、陶板・タジン鍋・ごはん釜・炭コンロ等、多彩な商品が開発されています。特に高度な技術を使った電磁調理器具用のIH土鍋の開発も盛んです。
(記 : 2009年10月13日)
追記 1:
萬古焼らしい色絵 花文 角小皿を手に入れました。
10.6×10.3×高さ1.5cm程の、小さな角皿ですが、絵柄が気に入り、購入しました。
「萬古の印があることがいちばんの特徴」と言われるほどの萬古焼ですが、この角皿にも、ちゃんと「萬古」の陶印があります。
最近の四日市萬古焼には、「萬古」の印のないものが多いのですし、年代もありそうですので、この小皿は、恐れらく、昭和のものではないか?と思っています。
花文もお気に入りですので、飾り棚に、しっかりと飾ろうと思っています。
(追記 : 2009年11月13日)
追記 2:
萬古焼、園山窯、2代 岸 園山作、安南写し、ぐい呑みです。
大きさは、径:6cm、高さ:4.5cmほどで、共箱付きです。箱書きには、園山造となっていますので、本人作だと思います。染付けのにじみや、表面の細かなカンニュウが、安南焼の特徴を捉えており、良い作品だと思います。
安南写しとは、安土桃山時代から、江戸時代の初期に入ってきた、ベトナム産の焼き物である、安南焼(あんなんやき)の写しという意味です。
安南焼については、「ベトナム・ホーチミンで安南焼の合子をゲット」を参照してもらうとして、景徳鎮辺りからすると品質の劣る染付けや、赤絵が、模様が滲んでいたり、全体にカンニュウが入っていたりしたものが、逆に、その時代の茶人に好まれたものです。
このぐい呑みは、その安南焼の手法を模して作ったものです。
萬古焼は、焼き方にも、形にもとらわれない自由な発想から生まれた焼き物で、謂わば、「何でもあり」の焼き物ですので、岸園山さんは、赤絵の名手ですが、色々なものに挑戦されたのでしょうね。
息子さんの岸
憲嗣さんもご活躍のご様子で、父子展なども催されているようです。
★ 作家 プロフィール ★
2代 岸 園山 (きし
えんざん) 本名:耕次(こうじ)
昭和2年 三重県四日市市に生まれる。
初代園山に師事。
日展、光風会展、朝日陶芸展、現代陶芸展、現代工芸展など入選受賞。
市陶芸協会会長。
(追記 2012年5月22日) |