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大樋焼窯元の本家争い

大樋焼には、「大樋焼本家窯元」を、主張する2つの窯元があり、法廷で闘争になっています。

名古屋高等裁判所が出した判決文より、双方の主張と、裁判所の判断をまとめてみましたので、ご参照ください。

★ 大樋焼とは ★ (判決文より)

大樋焼
(おおひやき)は,茶碗,茶器,茶具等のいわゆる楽焼系の工法を用いて制作される金沢産の焼物であり,寛文6年(1666年),加賀前田藩主五代前田綱紀により,陶工として楽家四代一入の門人であった土師長左衛門(後の初代大樋長左衛門)が京都から招かれ,現在の金沢市大樋町に移り住んで,千宗室仙叟の指導のもとに茶器を制作したのが始まりとされる。

土師長左衛門は,金沢に移住後,姓を「大樋」と改め,以後明治27年に没した七代大樋道忠まで,初代大樋長左衛門の直系の子孫とその門人により大樋焼の制作が続けられた。

しかし、初代大樋長左衛門の直系の子孫による大樋焼の制作は七代大樋道忠を最後に途絶え,当時の茶道の衰退とも重なって,大樋焼の制作活動も苦難の時期を迎えたとされているが,その後門人達(及びその子孫)の制作活動の結果,現代において大樋焼は,飴色の釉の特色ある焼物として全国的に知られるようになっている。

★ 2つの大樋焼窯元 ★

上記のように、大樋焼は、七代大樋道忠を最後に、直系子孫による大樋焼の制作は、途切れましたが、門下の子弟であった奈良理吉が、再興し、八代長左衛門を名乗り、その長男である、9代長左衛門(1901〜1986)は、陶土斎の号を15世裏千家鵬雲斎宗室より受け、9代の長男である、10代長左衛門(1927〜)は、昭和62年(1987)に、10代大樋長左衛門襲名しています。 (ここでは、「窯元A」とする。)

一方、昭和期に入り,明治維新後衰退していた茶道に再び恢復の兆しが見え,大樋焼の茶陶の需要も高まり始め、七代大樋道忠の直系子孫による大樋焼も再興されています。8代目大樋長楽(1902〜1991)陶玄斎が、再興し、その長男である9代目大樋勘兵衛が継承しています。(ここでは、「窯元B」とする。)

このように、子弟によって継承された窯元(「窯元A」)と、直系子孫によって、再興された窯元(「窯元B」)があって、双方が、「大樋焼本家窯元」と、「十代大樋長左衛門」を、争っていますが、一般的に、大樋焼本家と社会が認識しているのは、「窯元A」の方です。

★ 双方の主張 ★

  窯元Aの主張

窯元Aは、昭和5年に、窯元Bより、「九世大樋長左衛門」の名称使用禁止の訴訟を起こされた際、和解が成立し、「大樋焼の業統を譲り,窯元Aが「長左衛門」の名称を襲名して八代目となった旨,及び家督相続により業統と共に九代目長左衛門を乙が承継したことを確認する旨を記載した誓書を交付し、これに対し,窯元Bに2000円を支払った。」ことを、根拠に、大樋焼の正当な継承者であると主張しています。

いわば、法的にも営業権を当時としては、大金の2000円を支払って、買い取っており、営業権については、決着済みであるという主張です。

  窯元Bの主張

大樋家と窯元Aとは、何らの血縁関係もない他人である旨,大樋家代々の菩提寺である月心寺の墓地に乙の墓石を建立することの中止を求める旨、及び、窯元Aが、大樋長左衛門と名乗るのは,一代限りにて,今後の襲名は大樋家一族の了承が必要であるという主張です。

いわば、昭和初めの示談は、1代限り有効なものであり、10代大樋長左衛門を決めるのは、窯元B側にあるというものです。

★ 「2人の大樋長左衛門」 ★

その結果として、2人の大樋長左衛門が、同時に存在することになってしまって、窯元Aの訴えにより、どちらに正当性があるかが、争われました。

結果として、和解が成立し、窯元Bは、平成5年に、「大樋長左衛門」を、名乗らず、「大樋勘兵衛」とすることになったのですが・・・・・

窯元B側が、「大樋焼本家窯元,九代目大樋勘兵衛,前大樋長左衛門(長)」として、あたかも、「大樋長左衛門」が、「大樋勘兵衛」に、改名したかのような表現をしたことから、再度、争いになりました。

★ 裁判所の見解 ★

窯元Aは,七代大樋道忠死亡後,貧困にあえぐ遺子窯元Bの後見人から、大樋家の家系図など(この中には,大樋家に伝わる歴代の作品,陶印なども含まれると推認される。)を購入した者に過ぎず,道忠から大
樋焼本家窯元の業統・業名を譲られたと認めることはできない。したがって,窯元Aが大樋焼本家窯元の業統・業名を承継する正当な家筋であると主張することは,法律上の根拠を欠くものというべきである。

窯元Bは,大樋家本家直系の子孫であっても,大樋焼の業統・業名を承継したことはないのであるから,大樋焼本家窯元の業統・業名を承継したと主張することは許されない。

以上のとおりであるから,初代大樋長左衛門を始祖とする大樋焼本家窯元は,七代大樋道忠をもって廃絶となり,その後,その業統・業名を法律上正当に承継した者が存在するとは認められない。要するに,窯元A,窯元Bの双方とも,大樋焼本家窯元の業統・業名の承継者であることを自称しているけれども,いずれもその主張に正当な根拠は認められない

窯元Aは,たとえA家が大樋家と血縁関係がないとしても,七代大樋道忠亡き後,大樋焼の陶芸としての真髄を承継,発展させたのは,祖父以来の窯元A三代であるとの思いを強く抱いていることが窺われるが,そのような自負心を持つことは本人の自由であるけれども,その認識を他人に強要することは許されない

としていて、「喧嘩、両成敗」の判断を、裁判所は、しており、これからは、お互い、窯元Aは、「大樋長左衛門」とし、窯元Bは、「大樋勘兵衛」として、営み、お互いのブランドを犯してはいけないとしています。(判決の経緯は、こちらに詳しく掲載されていますので、ご参照ください。)

★ 私の感想 ★

まぁ、ご尤もな判決と言えば、そうですが、「双方とも、いい加減にしなさい!」と、裁判所が、叱っているということでしょうね。

餃子の王将」でも、ありましたが、どちらが、「元祖」か?なんて、あまり意味はないのですから、味とサービスで勝負してもらえばいいことですし、大樋焼も、お品で判断すればいいことだと、私は、思っています。

★ 大樋焼 系図 ★

       初代 大樋長左衛門 正徳2年正月21日没   享年82歳
       二代 大樋長左衛門 延享4年8月23日没   享年62歳
       三代 大樋勘兵衛  享和2年3月26日没   享年75歳
       四代 大樋勘兵衛  天保10年10月27日没 享年82歳
       五代 大樋勘兵衛  安政3年2月11日没   享年58歳
       六代 大樋朔太郎  安政3年6月25日没   享年28歳
       七代 大樋道忠   明治27年10月6日没  享年61歳

   窯元A
       八代 大樋長左衛門 (1851〜1927年)
       九代 大樋長左衛門 (1901〜1986年)
       十代 大樋長左衛門 (1927年〜   )
        
          十代 大樋長左衛門(年朗)さんと、息子さんの大樋年雄さん

   窯元B
       八代 大樋長楽 (1902〜1991年)
       九代 大樋勘兵衛 (1929年〜   )
        九代 大樋勘兵衛さん

大樋焼を焼いている窯は、他にも結構あります。「大樋焼」が、ブランドになっていることもあり、その正当性を争いたい気持ちは、わからないわけではありませんが、我々は、ブランドに惑わされるのではなく、お品で判断できる ようになりたいものですね。
                                              (記 : 2010年8月12日)

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