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湊焼の猪口

湊焼(みなとやき)の緑釉掛け楽焼の猪口です。













大きさは、径:6.7cm、高さ:3cmほどの猪口で、恐らく、明治初期のものと思います。「湊焼」の印が入っています。

明治に入って、初代金田新平が、盃専用窯を開いていますので、新平窯のものかもしれません。

実は、下の俵形喰籠が、ヤフオクに出ていて、湊焼の存在を知ったことにより、この盃をゲットしました。





湊焼には、色々な陶印がありますが、私の盃の陶印は、真ん中の印に似ていますね。

  

明治期のものは、淡路島のa平焼(みんぺいやき)と同じ種類の焼き物ですので、同時代のものだと思います。尚、淡路焼a平焼)については、「淡路焼(a平焼)の小判型皿」を参照ください。

★ 湊焼(みなとやき)とは ★

湊焼とは、大阪府堺市湊において、17世紀の後半の慶安年間(1648〜1652)に、楽焼の3代目道入の弟の道楽が、窯を開いたのが、はじまりとされています。道楽窯は、その後、山本窯へ引き継がれました。

同じ頃、京都御室の陶工上田吉右衛門も、堺・湊村へ移住し、道楽窯の製法と焼法を学び、堺での焼き物づくりを始め、吉右衛門窯となります。上田吉右衛門窯は、五代目にいたり、楽焼・交趾焼写の製造に成功しています。

湊焼は、江戸時代、山本窯や上田本湊窯によって発展しました。

18世紀初頭には、上田吉右衛門の親戚である長浜屋吉兵衛が、上田本湊窯の作品を手本として数々の名作を残しました。この上田本湊窯の分家である長浜屋窯は、明治以降、津塩姓を名乗り、津塩窯と呼ばれ、茶陶を中心とした上質の作品を残しました。

また、堺市材木町東一丁に住む金田新平(初代)は、陶器商を営む傍ら、明治10年に、盃専用窯を開き、以後活況を呈しました。

上田本湊窯は、8代目吉右衛門吉平の逝去(明治39年)によって終焉を迎えており、その他の窯も、明治末期には、廃窯になったようです。

★ 復興湊焼 ★

昭和15年、堺の酒造家、大澤鯛六が、湊焼の廃窯を嘆き、自邸(堺市大町東三丁)で窯を開き、その再現を計りました。これを復興本湊焼、別名鯛六焼と称し、昭和18年まで自邸で、以後は、岬町深日で操業しますが、昭和19年に鯛六が逝去し、その後、昭和36年には廃窯となってしまっています。

 鯛六焼

また、初代金田新平の子息である二代目新平は、戦後、堺更紗の見本帳を多く収集、それを題材とした堺更紗文の茶碗を製作、また地元堺に密着した題材の作品を、多数残しましたが、昭和51年新平の逝去により途絶えてしまいました。

現在は、堺市中区福田で、陶芸教室M・O・Cスタジオを主催する中橋一彰さんが、2006年に窯を開いて、湊焼の復興に尽力しています。
                                               (記 : 2015年9月26日)

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