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寒川義崇作・古曽部焼のぐい呑み

寒川義崇(さむかわ よしたか)作、古曽部焼(こそべやき)義崇窯干支羊御題街ぐい呑み1組です。























大きさは、「街」の方が、径:6.1cm、高さ:4.7cm、高台径:2.8cm、「未」の方が、径:6.0cm、高さ:4.5cm、高台径:2.7cmほどで、共箱付きです。

古曽部焼(こそべやき)については、「五十嵐新平作・古曽部焼のぐい呑み」でも、解説していますが、開窯は、桃山末期から江戸初期とされていますが、寛永年間(1624年ー1643年)以降、江戸中期に一度廃窯していました。

しかし、1790(寛政2)年頃に、京都で作陶技術を学んだ初代五十嵐新平(文政12年(1829年)没)が、現在の高槻市古曽部町に登り窯を開いて、再興したと言われています。

その再興古曽部焼は、明治末期に廃窯になっており、その「古曽部焼」の復興を志し、高槻市川久保に、昭和54年(1979年)に、「茶陶 古曽部焼義崇窯」を開窯したのが、寒川義崇(さむかわ ぎしゅう)氏で、このぐい呑みは、戦後の復興古曽部焼ということになります。

寒川義崇さんは、初代・寒川栖豊の末子として生まれ、昭和54年に、古窯を再興し、古曽部の特徴である、三島手絵高麗写など様々なものを制作し、独自の作風を確立し、多くの茶道具を制作しています。

下のぐい呑みは、4代五十嵐信平(いがらし しんぺい)のものと思われる、明治期の古曽部焼(こそべやき)のぐい呑みです。 (「五十嵐新平作・古曽部焼のぐい呑み 」参照)



★ 作家 プロフィール ★

寒川 義崇 (さむかわ よしたか)

1951年 紀州焼葵窯、初代寒川栖豊の末子として生まれる。
1972年 大阪芸術大学芸術学部陶芸専攻を卒業する。
      同大学副手として勤務。
1974年 大阪美術倶楽部・市田朝芳庵のもとで茶道具と古美術の勉強に入る。
1978年 秋、高槻市川久保の地に登り窯を築窯する。
1979年 春 茶陶古曽部焼 (義崇窯)として再興する。
現在   大阪カルチャーセンター講師。
      茶道表千家、裏千家、武者小路千家各御家元より書付を拝受。
                                              (記 : 2015年12月16日)

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