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宮城勝臣作・琉球焼のぐい呑み

琉球焼(りゅうきゅうやき)の現代の名工宮城勝臣(みやぎ かつとみ)作のぐい呑みです。











 陶印「臣」

大きさは、口径:6.4p 高さ:4.7cm程で、共箱、栞付きのお品です。じょうやち(上焼)と言われる作品で、薄いブルーの釉薬が掛かり、中々の力作ではないか?と思います。

宮城勝臣さんは、厚生労働大臣認定の、現代の名工として知られ、お弟子さんが、独立されている方も多い作家です。

宮城陶房は、沖縄県与那原町字上与那原にあり、現在、勝臣さんのご子息の勝一郎さんが継いでおられますが、シーサーをはじめとする伝統的なものの他に、新作にも挑戦されています。また、次男の勝人(しょうじん)さんも、独立されて、活躍中です。


琉球焼(りゅうきゅうやき)とは、沖縄で焼かれているやきもので、壺屋焼(つぼややき)以外のものをいいます。何故、こういった分け方をするようになったかは、「壺屋焼と琉球焼の論争」で、取り上げていますので、ご参照ください。

琉球における焼き物の歴史は、1430年頃から始まり、その当時、沖縄本島の北部に古我地(こがち)焼、サバ焼、中部に喜納(きな)焼、知花焼、山田焼、南部に湧田(わくた)焼、宝口(たからぐち)焼等の古窯が、散在しており、おもに荒焼と呼ばれる無釉(むゆう)(上薬を施さない)のもので、酒ガーミ(泡盛を入れる容器)や水かめ、生活に必要な日用雑器等が焼かれていました。

その後、1609年に薩摩藩が琉球に侵攻し、朝鮮から陶工師(張献功(ちょうけんこう)・張一六(ちょういちろく)他二名)を招き、琉球からは王名を受けた陶工師(平田典通・渠致元)が琉球の陶工師達に製法・技法を伝授し、さらに中国や薩摩に釉薬や赤絵の研究におもむき、そして帰国後彼らにより琉球の焼物は一大転換を見ることになり、釉薬・上絵付け・盛り付けを施した焼き物が焼かれる様になりました。

1682年一部の陶窯(美里村知花窯・首里宝口窯・那覇湧田窯)が那覇の牧志村に移され、現代の壺屋焼の基 となりました。

壺屋陶器事業組合では、この流れを汲むものだけを、平成20年に、壺屋焼として商標登録し、戦後、産業振興の一環として、作られた窯については、壺屋焼と称することを禁じています。

壺屋陶器事業組合に入っていない窯は、琉球焼事業協同組合に入っているか、どちらにも属していない窯が、「琉球焼 」の名称を使って作品を送り出しています。

琉球焼では、宮城陶房の他に、朝日陶器のいとまん窯(島袋常一)、丸勇陶房の許田窯(仲村勇)、秀山窯関谷秀男)などが、有名です。

琉球焼 は、どちらかというと、民窯らしい手頃なお値段で買えるものが多いようですが、シーサーや、下のような作品は、結構なお値段になっているようです。

 
      宮城勝臣作 じょうやち(上焼)斑 大皿(径44cm)

 ● 作家 プロフィール ●

 宮城 勝臣(みやぎ かつとみ)

1936年 10月26日生まれ
1957年 父(宮城勝英)より宮城窯業を受け継ぐ
1971年 宮城陶房設立(宮城窯業内)
1972年 やちむん会会員(沖縄県)
1973年 大里村にて鉄砲窯築く
1983年 沖縄県陶器事業協同組合理事長
1984年 大里に登り窯き(三袋半)築く
1987年 卓越技能章(現代の名工)労働大臣章受賞
1992年 琉球焼陶器事業協同組合顧問・理事
2006年 死去 
                                                (記 : 2010年9月26日)

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