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福森円二作・阿漕焼の茶碗

再興阿漕焼(あこぎやき)、初代福森円二作の黒茶碗です。







 

 陶印「阿漕」

阿漕(あこぎ)な人」というと、義理人情に欠け、あくどい人という意味で使われることが多いようですが、禁漁地である阿漕ヶ浦で、ある漁師がたびたび密漁をして捕らえられたという伝説から、 しつこく、ずうずうしいこと、義理人情に欠けあくどいこと、特に、無慈悲に金品をむさぼること、また、そのさまをいうようになったようです。

その語源になったのが、阿漕ヶ浦 ですから、おもしろいですね。

阿漕焼は、その三重県津市大谷町で焼かれている焼き物で、下記の通り、色々な変遷を経て、現在は、「福森阿漕」として、窯元は1軒だけですが、四日市万古焼と同様の多種多様のお品を生産されているようです。(窯元から独立された窯元もあるようですが、阿漕焼を名乗られていないようです。)

この黒茶碗は、大きさは、径:115o×高:60o 程で、共箱付きです。陶印も、「阿漕」と入っています。初代円二は、1977年に亡くなっていますので、少なくとも40年以上前の作品ということになりますね。現在は、3代(はじめ)さんが、継承しておられます。

★ 阿漕焼とは 

阿漕焼(あこぎやき)の元祖は、萬古焼の元祖、沼波弄山の弟子であった沼波瑞牙であるとされます。瑞牙は、藤堂藩の招聘によって、当時の安東村にて窯場を開き、萬古焼を焼き始めました。(江戸中期〜後期)
このため、当初は、安東焼といわれました。その後、窯場は城下近くの馬場屋敷で焼かれるようになり、この頃から阿漕浦に因んで、「阿漕焼」と名乗るようになり、藩の御用窯として重宝、主に日用雑器が焼かれました。

その後中絶しましたが、豪商、倉田久八が藩の命を受けて再興させました。但し、久八は旦那芸としてあくまで趣味の範疇でありました。その後、明治維新を迎えると藩の援助は一切打ち切られたため、富裕な商人らが、共同で阿漕焼を支えていきました。そのため、対立が生じ、古くからの窯場(船頭阿漕)は人材不足で廃窯、後発の窯場(土手阿漕)も放漫経営のため、廃窯してしまいます。

それでも阿漕焼を惜しむ声が多く、明治34年には阿漕焼製陶会社を設立しました。しかし、直後に日露戦争に直面したため、経済不況が直撃、工場を閉鎖させざるを得ない状況となりました。その後も有力な実業家や職人が再興を図るも、機械化の影響もあって、少量生産の阿漕焼は興廃を繰り返すだけでした。

昭和6年、津市長堀川美哉は、萬古焼職人の福森円二を招き、阿漕焼を再び盛り返そうと図りました。当初は、厳しい経営が続いていましたが、戦後になって、日用雑器から付加価値の高い茶器に対象を転換し、漸く、阿漕焼は再興を果たすことになり、現在の阿漕焼は「福森阿漕」と呼ばれ,初代・円二(えんじ・1901〜1977),二代・(ひろし・1935〜1998),三代・(はじめ・1961〜 )と受け継がれています。

特徴は、 古万古焼のながれをくむ焼き物で、赤絵、青磁、染め付け、刷毛目、御本手、京焼風、など、あらゆる作風が製作されており、乾山写しや中国、朝鮮風の作品も焼かれています。色絵も古万古焼の流れをくんだ盛り絵の技法が使われていますし、久八の案出した真鍮線を象眼した物も作られています。

阿漕焼の作品は、オークションでも、時々見掛けるのですが、共箱に入っているものは少なく、今回、初代円二の作品を共箱付きで、手に入れることが出来て、うれしく思っています。
                                           (記 : 2010年11月17日)

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