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鮫島佐太郎作・苗代川焼の花入れ

鮫島佐太郎(さめじま さたろう)作の、苗代川焼(なえしろがわやき)(薩摩焼)の鉄黒釉・旅枕型筒六寸花入れです。

苗代川焼

苗代川焼





 陶印「佐」

所謂、「黒もん」の苗代川焼で、鮫島佐太郎窯の得意なものです。大きさは、径:8cm、高さ:19cmで、共箱、栞付きです。

黒薩摩らしく、荒々しいといいますか、豪快な感じがする花入れです。

黒もんと、白もんの話や、薩摩焼全体の話は、「白薩摩と黒薩摩」で取り上げていますので、そちらも、ご参照ください。

薩摩焼は、元々、地元では、苗代川焼(日置市(旧東市来町))、龍門司焼(りゅうもんじやき)(姶良市加治木)、復興した竪野系の長太郎焼(鹿児島市谷山)と呼ばれていましたが、2002年に経済産業大臣指定の伝統工芸品に指定された際に、まとめて、「薩摩焼」となったようです。

苗代川焼は、慶長4年(1599)、陶工・朴平意が串木野窯を開き、その後、苗代川(現・日置市東市来町美山)に移住します。当初は、黒薩摩(黒もん)や、朝鮮から持ってきた白土を使い「火計手(ひばかりで)」などを主に焼いていましたが、やがて白陶土が発見され、1782年に白薩摩(白もん)の捻物細工を開始し、1844年には錦手、金襴手へと発展しました。

朝鮮から連れてこられた陶工たちのうち、串木野・島平に上陸した約40名が、故郷の風景に似ていることから、そこに窯を開いたといいます。この苗代川系の陶工たちは上陸以来江戸時代の終わりまで、故国を忘れることなく、言葉も服装も朝鮮であることを貫ぬきつづけました。

そのため、現在も東市来町美山は、独特の風俗を持った陶里となり、400年以上続く、名門・沈壽官窯(ちん じゅかんかま)も、この地にあります。14代当主は、司馬遼太郎の『故郷忘じがたく候』の主人公でも知られ、色絵薩摩の担い手です。

朴平意の末裔にあたる荒木陶窯では、今も、朝鮮ゆずりの左まわしのろくろにこだわっています。独自の天然釉薬を使い、祖先の心を大切に守りながら「苗代川焼」の保存継承に尽力しています。

鮫島佐太郎窯は、同じく410年の歴史を持ちながら、先代の思いと技を、一子相伝的に伝えていく、孤高の窯元ともいえます。

苗代川焼の窯元は、現在では15〜16軒残るのみですが、この3つの窯元が、苗代川焼の主要な窯元と言っていいでしょう。苗代川焼の窯元は、白もん、黒もん、どちらも作られるようですが、白もんは、沈壽官窯が、黒もんは、鮫島佐太郎窯が得意としているようです。

尚、苗代川焼窯を名乗るためには、どこかで、文禄慶長の頃渡来した、二十一姓七十人余人の陶工の血筋を引いていないと名乗れないそうです。

 展示室

 苗代川民陶館

鮫島佐太郎氏現当主の鮫島さんは、「苗代川焼で、最も大切なことは、薩摩の土を使い、伝承の釉薬を使って焼くことであり、幸い黒薩摩の土は、まだ地元で手に入ります。いかにして、伝統を守りながらも、形骸化したものではない、生活の中で必要とされる器として残っていくかが、課題ですね。その道を常に模索しています。」と、話されているそうです。

苗代川では、現在に至るまで、朝鮮名が残っています。この里の人は、”故郷忘じがたく候”にもその歴史が書かれていますが、400年にわたって望郷の念を抱いて生きてきているそうです。

現在、北朝鮮の拉致の問題が、国際問題になっていますが、理由もなく、拉致されて日本に連れてこられたという思いは、同じなのでしょうね。
                                              (記 : 2012年1月21日)

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