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松山雅英作・孔雀焼の花瓶

松山雅英(まつやま がえい)作・孔雀焼(くじゃくやき)孔雀窯、孔雀釉の花瓶です。

孔雀焼







 

箱書きの筆跡と落款から、恐らく、2代目松山雅英の作品だと思います。大きさは、高さ:22.8cm、径:19cmで、共箱、共布、栞付きです。

この作品を、孔雀焼とすべきか、龍野焼(たつのやき)とするか迷ったのですが、現在もある孔雀窯が、孔雀焼とされていますので、ここでは、孔雀焼といたしました。

孔雀焼(くじゃくやき)は、支那事変勃発後、宣撫官として中国大陸に渡った、初代松山雅英(1916年(大正5) − 1963年(昭和38))が、中国の陶器に心を動かされて、研究していましたが、昭和22年(1947年)帰国し、兵庫県龍野町冨永に窯を築き、揖西町の粘土を用い、京都の清水六兵衛の指導を受けて、龍野焼として、陶器の製造を始めたのが、興りです。

昭和25年に、上霞城町に窯を移し、昭和26年、窯変孔雀天目釉を完成して、孔雀焼を生み出しました。

昭和38年、初代は、胃腸を壊した際に、妻である蔦子さんに窯変孔雀天目釉を伝授して、死去しました。

昭和39年に、蔦子さんは、2代雅英を襲名して、作陶を続け、作品は、フランスの美術館に所蔵されるほどで、個展も数々行われました。

しかし、2代目も平成6年に死去し、平成7年に長女の和子さんが、3代目を継承して、現在に至っています。ただ、残念ながら、3代松山雅英をもって孔雀窯を閉じるそうです。


窯変孔雀天目釉は、辰砂と斑点結晶を特色とし、時として油滴天目を思わせる発色と斑点結晶は、窯変によるためで、作品の斑様はすべて異なり、還元炎が多い場所では、赤が多くなり、酸化炎の多いところでは、緑っぽくなったり、白っぽくなります。その窯変は、意図を持って作り出すことの出来ない偶然のもので、そこがこの焼き物の、特徴となっています。

右の作品は、同じ作品でも、裏表で、赤の出方が違っています。

口の部分は、還元がよく掛かって、真紅になっていますが、酸化炎に当たっている部分が、白っぽいというか、緑っぽくなっています。

全く、還元炎が当たらないで、酸化焼成されると、下の花瓶のように単一のうす緑色になります。

私の買った、上神焼のぐい呑みも、同様に、辰砂釉が、酸化焼成されたものでした。窯の中での、作品の位置によって、模様や色が変わるのが、また、楽しさでもありますね。(「山根芳子作・上神焼のぐい呑み」参照)



尚、松山彰輝(まつやま しょうき)さんが、孔雀焼龍野窯で活動されています。孔雀窯との関係は、わからないのですが、同じ孔雀釉を使われていますので、分家なのかもしれませんね。

★ 作家 プロフィール ★

 二代目 松山雅英(まつやま がえい)

大正9年生まれ。本名蔦子。兵庫県龍野市出身。
初代の夫雅英は、昭和20年中国より古陶磁研究の成果を得て帰国し、22年郷里に龍野焼を興し、26年窯変孔雀天目釉を完成。
38年初代死去。
39年2代雅英を襲名。龍野焼孔雀天目を継承し作陶。宮家献上、買上げ。49年パリ個展。

                                                (記 : 2012年2月1日)

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