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藤本肇作・陶津窯のぐい呑み

陶津窯(とうしんかま)、2代藤本肇(ふじもと はじめ)作、白釉ぐい呑みです。



神勝寺焼陶津窯





大きさは、口径約6cm、高さ5cmで、共箱、共布付きです。初代が苦心の末、あみだした「白釉」の作品で、いまでも陶津窯の代表的な釉薬となっていて、調合は企業秘密となっているそうです。

ぐい呑みとして、掴みやすいように、1ヶ所窪みを付けてあり、手に馴染むようになっています。

広島県福山市には、熊野焼(くまのやき)もあり、また、隣の岡山県笠岡市には、吉備焼(きびやき)があって、窯元を訪れていますが、神勝寺焼のことは知りませんでしたので、機会があれば、窯元を訪れてみたいと思っています。(「熊野焼の窯元を訪問!」参照)

神勝寺焼(しんしょうじやき)は、広島県福山市沼隈町で焼かれている焼き物で、大正8年、福山市大門町津之下皿山に、初代藤本陶津(明治8年〜昭和42年)が、陶津窯(真鉄焼)を築窯し、70有余年の作陶を続けたのが始まりです。

初代藤本陶津は、福山藩の国産奨励の波にのって誕生した岩谷焼(いわたにやき)を産出した岩谷の陶郷に成長して、陶工としての腕をみがいていきました。

当時の登り窯そして、今の吉備焼(きびやき)の前身、山陽陶器株式会社として、大門湾を挟んで目と鼻の先の、岡山県側の城見損の浜辺に、30歳をわずかに出た初代陶津を棟梁として窯が築かれたのは、明治39年でした。(吉備焼については、「吉備焼のぐい呑み」参照)

初代陶津は、40歳も半ばに達する大正8年に独立し、福山市大門町に陶津窯(とうしんかま)を開きました。その後、初代の長男の2代藤本肇(大正3年〜平成21年)氏が、陶津窯を継承しました。
                                                    登り窯 

 
       粘土作りのための濾過場                      完成品の出荷風景

現在の神勝寺焼・陶津窯(しんしょうじやき・とうしんかま)は、広島県福山市沼隈町神勝寺(みろくの里)の地に、30数年前、常石造船(当時)の故、神原秀夫社長によって、2代藤本肇氏の長男の陶津窯3代藤本明成(めいせい)氏を迎えて、開窯されたものです。

現在は、3代藤本明成さんが、娘さんの4代目の藤本路加(ふじもと・ろか)さんと共に、窯を守っておられます。

★ 作家 プロフィール ★

 2代 藤本 陶津 (藤本 肇(ふじもと はじめ))

大正3年 初代陶津の長男として生まれる。
昭和13年〜15年 従軍し、帰還。
戦後、厳父の指導の下、作陶を開始。
日展入選多数。
昭和62年 文部大臣より地域文化功労者として文部大臣賞受賞。
平成21年 96歳にて永眠。

★ 岩谷焼(いわたにやき)とは ★

備後国深津郡引野村字岩谷(広島県福山市引野町)の陶磁器。
引野焼ともいわれます。
1818年(文政元)福山藩士浜野徳蔵の子源吉および元掛方三島屋徳右衛門らの創窯にかかり、陶器・磁器ともに焼き、主に日用雑器ではありましたが、特に輛(同市鞘町)の保命酒徳利を多く焼きました。
いわゆる鞘焼の色絵撫角徳利も素地はこの岩谷焼の製で、これを輛の中村生玉堂の上絵窯で絵付したものであります。
1900年(明治三三)頃に廃窯。

注:神勝寺焼の情報は、少なく、本文の多くは、神勝寺焼陶津窯のHPより引用させていただいています。
                                              (記 : 2012年2月26日)

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