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宮崎祐輔作・嬉野焼のぐい呑み

嬉野焼(うれしのやき)・谷鳳窯(たにほうかま)、宮崎祐輔(みやざき ゆうすけ)作、染錦山水ぐい呑みです。











大きさは、径:5.5cm、高さ:5cmで、共箱、栞付きです。

宮崎さんは昭和29年、佐賀県嬉野町吉田皿屋生まれで、同じ嬉野町内にある琥山窯で16歳のころより7年間、作陶を学びました。その後、宮崎さんは白磁、それも染付と上絵とを巧みに組み合わせた作風を確立させて、昭和52年、23歳の折に父と谷鳳窯を築窯して独立しました。

このぐい呑みは、その頃の作品ではないか?と思います。上記の染付と上絵とを巧みに組み合わせた作風で作られており、現在の作風のシルクロードのイメージとは少し違っているからです。

私のぐい呑みは、染錦手(そめにしきで)といって、まず染付けで下絵をして焼いた後、赤絵を上絵付けする手法で作られています。今の作風のものには見かけませんので、まだ、現在の作風に至る前の、自分の作風を探っている最中のものではないか?と推察しています。

独立して4年後の昭和56年に、中国外遊(敦煌、大同、洛陽、桂林)し、「昭和56年、友人に誘われて中国の石窟(せっくつ)見学に出掛けた時に初めて、敦煌や周囲の人々の素朴な暮らしぶりを目の当たりにした。当時は何とも思わなかったが、帰国後、シルクロードを作品に表現したいという衝動が、ふつふつと自分の内側からわいてきた。その時の体験、感動が今の自分を形成したといっても過言じゃないですね。」 とおっしゃっているように、現在の作品は、多彩な、赤絵・染付・染錦・釉裏紅などの手法を使ったシルクロードに取材したエキゾチックな味わいが、宮崎さんの作品のモチーフになっています。


 代表的なシルクロードをイメージしたぐい呑み(井蛙草庵(せいあ そうあん) 第二巻より)

さて、嬉野焼(うれしのやき)という言葉、調べてみると、定義がちょっと曖昧な感じで、どれが定説なのか?がはっきりとしませんでした。

嬉野の焼き物は、どうやら、内野山で焼かれた内野山焼(後に、源内焼とも言われた)、吉田山で焼かれた肥前吉田焼、小志田山で焼かれた志田焼があるようです。

内野山吉田山は、同じ嬉野町にあり、 その水平距離は約5kmですが、政治的には、内野山は、鍋島本藩領、吉田山は、蓮池藩領、隣の塩田町にある小志田山は、武雄鍋島藩領で管轄が異なっていたようです。

しかし、いずれの焼き物も、大きく分類すると有田焼の一部とされているようです。

上記の3つの焼き物のうち、内野山焼だけを嬉野焼としているものもありますが、ここでは、佐賀県嬉野市(旧嬉野町、旧塩田町)で焼かれた焼き物ということで、3つの総称を「嬉野焼(うれしのやき)」とさせていただいています。

まず、内野山焼(うちのやまやき)ですが、創始は文禄・慶長の役(1592-8)のあと、帰化した陶工中相原・金原の二人によって内野山に築窯されてからだといわれます。

ややのちになって嬉野徳利が知られ、明和(1764-72)の頃には粗雑な磁器の飯碗をつくり、製造業者も二百余に増加したといわれます。

しかし以後次第に衰微し、明治時代には富永源六の磁業だけとなりましたが、1889年(明治二二)から次第に良品を産するようになり、これを別に源六焼ともいいました。

一方の肥前吉田焼(ひぜんよしだやき)ですが、天正5年(1577年)、吉田村を流れる羽口川の上流、鳴川谷での磁鉱石の発見によりはじまったとされます。

寛永年間(1624〜44年)、藩主鍋島直澄が隠居後、その偉業として吉田山の陶磁器業を督励しました。

享和年間(1801〜4年)に入ると、副島弥右衛門が、制限外の窯数を増し、事業を拡張して吉田焼きの繁栄を促しました。しかし、天保の初年(1830年)頃には生産過剰になり、しだいに窮地に追いやられる格好となっていきました。

明治13年(1880年)、吉田山に陶磁器会社「精成社」を設立し、改良を図りました。その後、市場を中国や朝鮮に向け輸出用として日用食器の製造に励み成功しました。明治44年(1911年)には有田より技術者をむかえ、吉田焼も錦絵に成功。ますますその名声を高めていきました。しかし、時代の流れと共に国内向けになり、現在は、15の窯元が個性あふれる作品を世に送り出しています。

志田焼(したやき)は、1700年前後、佐賀県嬉野市の東端に位置する塩田町で、志田焼の生産が始まったもので、有田の高級磁器に対し、大衆向けの磁器が大量生産されました。特に幕末の全盛期には、5つの登り窯のよって皿類が大量に生産され全国に販売されました。

大正時代からは、志田陶磁器株式会社によって建てられた工場が有名で、多くの磁器が生産され、志田焼の中心となりましたが、昭和59年(1984年)に閉鎖。その工場は現在、『志田焼の里博物館』として当時の建物のまま保存されていて、大正・昭和初期における磁器製造の全工程を見学できる貴重な施設となっています。

志田焼の里博物館


                     巨大な石炭炉の内部


★ 陶工 プロフィール ★

 宮崎祐輔 (みやざき ゆうすけ)

1954年 佐賀県嬉野町に生まれる
1969年 琥山製陶所入所、作陶に入る
1971年 九州山口陶磁展入選
1974年 日本伝統工芸展初入選、以後14回入選
1975年 日本陶芸展入選、以後6回入選
1977年 佐賀県嬉野町吉田皿屋に谷鳳窯開窯
1978年 日本工芸会正会員となる
1981年 中国外遊(敦煌、大同、洛陽、桂林)
1990年 パキスタン外遊(フンザ、チラス、ペシワール)
1994年 モロッコ外遊

日本工芸会員正会員、県陶芸協会会員
                                                (記 : 2012年5月12日)

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