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飯田広輔作・小松原焼の椀

古小松原焼(こ・こまつはらやき)の飯田広輔造・手捻り椀です。





小松原焼







大きさは、径:19cm、高さ:8cmで、手捻りで成型したあと、陽刻を施し、どぎつい彩色をした椀です。

非常に珍しいものだと思い、購入しました。

ただ、下記の通り、小松原焼は、戦争で一旦途絶えたあと、戦後に田中博山さん、丹山さん兄弟によって、再興されていますが、この作品は、現在のものと少し作風が違いますので、再興前のもので、時代は、明治ではないか?と思われる作品です。

作者について、売主に事前に質問すると、次のような説明がありました。

『 飯田氏の焼物には特徴があり、画像にあるような焼物が主です。 桜の印等の落款ある物もありますが、こちらにはありません。 ただ数多く取り扱ってきた経緯があり保証と言いきれます。 宮崎県の古美術商、骨董屋に購入後御尋ねになられても同じ答えを得ると確信あります。 全国数多くの焼物ありますが、この土、この造りは飯田氏のみですから。 』

ということです。

また、落札後、売り主様が、プロのようでしたので、この作品についての時代についての質問をしましたところ、大変、ご丁寧な回答を寄せていただきました。その内容な下記の通りです。

『 正式には、都城薩摩焼と文献にはございますが、南九州では、都城小松原焼名称にて通っています。(鹿児島の小松原焼と混同するためです。)
ご指摘の飯田広輔氏は、作陶明治30年代後半になります。
現在の都城小松原焼15代田中氏の先祖にあたる朴休丹(田中休丹)氏が、明治34年開窯にて同時期より少し遅れての作陶です。
九州地方で売買なる都城小松原焼は、朴氏と飯田氏の物のみです。
宮崎の小松原焼コレクターが、以前専門書を発売し保管していましたが、大体把握した為手元になく、詳細な画像や履歴等説明できません。
もし詳しく知りたいのであれば、九州国際大学にて完全なる調査及び文献がありますので問い合わせてみたらいかがですか? 


というご返答をいただき、私の見立てた、「時代は、明治ではないか?」が当たっていたことがわかりました。

また、上記でおっしゃっている文献は、「都城薩摩焼の系統と諸窯 都城焼物所(都城窯)・宮丸窯・小松原窯(朴休丹窯・飯田広輔窯)」(九州国際大学社会文化研究所出版)であることがわかりました。

また、余談ですが、お品の相場についても、次のような解説をいただきました。

『 一応相場観もお伝えします。 飯田氏の焼物は、ご購入された形状や色の使いでは、業者間にて一万五千円位にて取引されます。 又、上手の物は更に毒々しい金泥が加えられ、その手は三万五千円位から取引されます。 落札して頂いたものは、当方が一万五千円にて仕入れした物です。 ヤフオクの成り行きから、三千円で落札しましたが、まだヤフオクの民芸ファンが成熟していないのかと考える始末です。 あえて詳しく回答しなかったのは調べて頂きたくあいまいにしました。 今回ある程度の知識回答は行いましたので、是非更にお調べ下さい。 購入して頂いた事、感謝しています。 国焼(地方)は多々あります。 九州の国焼は私にとって愛してやまない物です。 手にとって疑問頂ける事も骨董屋冥利につきます。 』 

上記文面にもありますように、3000円のスタート価格から、私以外に入札した人はいなかったため、3000円での落札になりました。15,000円の仕入れだそうですので、こんなに安く落札してしまって恐縮しています。大変、珍しいものですので、これからも大切にしたいと思っています。


かつて、下の作品をネットで見たことがあります。これも、同じく飯田広輔さんの作品かもしれませんね。(金沢大学資料館「小松原焼木葉動物陽刻水盤」より)



小松原焼(こまつはらやき)は、宮崎県宮崎市月見ヶ丘の住宅が立ち並ぶ一角にあり、400年の歴史をもつ薩摩焼(苗代川焼)の流れをくむ焼き物です。

独特の「鮫肌」「鈍甲(どんこう)」などが、小松原焼の特徴で、十四代目の田中博山さん、丹山さんの兄弟が窯の火を守っています。(現在は、十五代目丹山さんが、窯元になられているようです。)

 左が田中博山さん、右が丹山さん

小松原焼の開祖・朴平意は、豊臣時代の文禄・慶長の役によって薩摩に帰属し、苗代川(鹿児島県日置郡)で、白土を発見して白薩摩を焼き始めました。朴家は、その地で約250年の歴史を刻んだ後、幕末も近い万延年間(1860年)に、都城領主・島津久本の招きで都城の小松原に開窯しました。

明治になってからは、人の移動が容易になり、自らの意志で各地に移り住み窯をひらく者もたくさんいたそうで、朝鮮半島からも、優秀な陶工をたくさん雇って、盛んに焼かれていたそうです。大正時代からは、伝統からしだいに離れていって衰退し、第二次大戦中に途絶えていましたが、昭和21年に都城に戻り、再開も、排煙問題などで、昭和46年に現在の地で移っています。

鉄分が多い都城の土が、簡素で剛健な味わいを生み、苗代川焼の伝統的技法を継承した「叩き 」のほかに、「釉薬(うわぐすり)」の研究によって作り出された、表面に細かな割れを与える「蛇蠍(だかつ)」「鮫肌」「鈍甲(どんこう)」などの技法は、小松原焼に独特の表情をもたらしています。

 鈍甲肌の壺

 鮫肌の壺

小松原焼は、力強く、重厚なため、花器・つぼ類から日常生活用品に至るまで、さまざまな用途に利用されています。 最近では、新しい感覚の色彩を取り入れた作品も作られています。
                                                (記 : 2013年2月27日)

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