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長岡空権作・楽山焼のぐい呑み

11代 長岡住右衛門(空権)(ながおか すみえもん)(くうごん)作、楽山焼(らくざんやき)のぐい呑みです。

楽山焼













   「楽山」

大きさは、口径約6.2センチ×高台約3.5センチ×高さ約5.8センチほどで、共箱(桐箱)、栞付きです。 空権の陶印は、「空権」「空」「楽山」などがありますが、このぐい呑みには、「楽山」とあります。

楽山焼独特の刷毛目と伊羅保(いらぼ)写しのぐい呑みで、大変、良いものが手に入ったと喜んでいます。

尚、楽山焼は、島根県松江市のものと、愛媛県松山市のものがありますが、このぐい呑みは、島根県、松江市の楽山焼のものです。(松山市の楽山焼は、「玉井楽山作・楽山焼の天神蟹盃 」参照)

★ 楽山焼とは ★

楽山焼(らくざんやき)は、島根県松江市西川津町の楽山公園の一角にある窯元で、楽山は、松江藩ニ代目綱隆以来、藩主の別荘地であったところで御山(おやま)ともいわれ、楽山焼は御山焼とも呼ばれています。

楽山焼は、江戸時代初期の延宝5年(1677年)、萩の陶工である倉崎権兵衛を祖とし、松江藩の御用窯として創業したのが始まりとされています。倉崎権兵衛重由は、朝鮮からの帰化人で、萩焼の李敬初代高麗左衛門)の高弟で、伊羅保写(いらぼうつし)、高麗写などを得意としました。

天明6年(1786)、楽山窯はいったん中絶しましたが、享和元年(1801年)に、松平不昧公が、玉湯町の布志名窯にいた名工・長岡住右衛門貞政に再興させました。

長岡住右衛門は、茶陶にすぐれ、楽山焼五代目となりましたが、六代目空斎以降は、茶陶のほか京焼風の色絵陶器をさかんに作り、その後、九代空右など多くの名工を生み出しました。現在は、十代空處の後を、楽山焼十一代長岡空権が伝統を守っています。

楽山焼の特徴は、刷毛目と「伊羅保写し」といわれる技法で、器は、同名の釉薬を使って仕上げられた落ち着きのある淡い山吹色をしています。御用窯としての格式と品位を重んじる楽山焼では、今なお、土灰づくりとその調合に関しての工夫が施されつつあります。

土は、萩焼と同じ土を使用し、今でも、230年前に造られた高麗窯で焼かれるそうです。

高麗窯 高麗窯

楽山焼は、昭和59年(1984年)に、島根県ふるさと伝統工芸品に指定されています。

★ 作家 プロフィール ★

11代 長岡住右衛門 空権 (ながおか すみえもん くうごん)

昭和4年(1929年)  松江市にて、楽山焼窯元の家に生まれる。

昭和22年、家業に従事、祖父・九代空味、父十代空処に師事。

昭和35年、坂 高麗左衛門に師事

昭和46年、十一代住右衛門すみうえもん襲名。号・空権(くうごん)

                                                (記 : 2014年1月29日)

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