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渡辺敏明作・白岩焼の水滴

白岩焼(しらいわやき)、和兵衛窯(わへいがま)の渡辺敏明(わたなべとしはる)作、海鼠釉水滴です。















大きさは、長さ:約6.5cm 高さ:約4cmで、紙共箱、栞付きです。 

白岩焼の特徴である、暗褐色の鉄釉地に、白っぽい青の海鼠釉が掛かった水滴で、和兵衛窯の窯印である、「」があります。白岩焼の海鼠釉は、窯の中の位置や、酸素の状態で、濃い青になったり、白くなったりするそうで、この水滴は、やや白い部分が多いかな?という感じですね。

白岩焼の作品は、中々、市場に出てこず、私のコレクションの中で、主要な焼き物の産地の最後を飾ったのが、この水滴です。白岩焼の典型的なお品が手に入って、喜んでいます。

尚、この水滴ですが、オークションでは、「酒器 醤油差 薬味入」として、出品されていました。最近は、書道をする人が減っているので、書道に使う水滴だというのを知らない方も多いんでしょうね。(笑)

★ 白岩焼とは ★

白岩焼(しらいわやき)は、秋田県仙北市角館町白岩地区で焼かれる陶器で、今から240年前の明和8年(1771年)、大堀相馬焼の陶工で相馬藩浪人の松本運七が、白岩で優れた陶土を発見し、山手儀三郎など地元の若者4人を弟子に窯作りに入ったのが始まりです。(注:開窯は、栞では、明和7年(1770年)となっていますが、Wikipediaの解説に従っています。)

秋田藩の庇護もあり、藩の御用窯として、山手儀三郎が京都に上り、上絵、楽焼などの技術を持ち帰り、その後の白岩焼発展の基礎を作り、軌道に乗せました。一時は6つの窯があり、繁栄しましたが、明治維新後、急速に衰退し、明治29年の「六郷地震」も加わり、明治33年(1901年)、最後の窯の火も消えました。

それから70年、窯元の一つだった渡辺勘左衛門の流れをくむ渡辺すなおさんが、白岩焼コレクターでもあった当時の秋田県知事・小畑勇二郎の仲立ちで、人間国宝の浜田庄司氏と出会う機会を得たのをきっかけに、周囲でも白岩焼復興の機運が高まり、岩手大教育学部特設美術科を卒業とともに、昭和49年、白岩焼を再興し、先祖の名にちなんだ和兵衛窯(わへえがま)を創設しました。

そして、同じ研究室の先輩だった敏明さんと結婚し、昭和53年、窯元となった敏明さんが4室のある登り窯を自力で作り上げ、白岩焼の復興を軌道に乗せました。







和兵衛窯では、渡辺敏明さんと、すなおさんの陶芸家夫妻、それに長女の葵さん(31歳)の3人が、制作に励んでいます。

また、和兵衛窯の他に、久右衛門窯与吉窯などが白岩焼の窯元として、素朴さが身上にし、日用雑器から芸術品まで、独特な味わいのある作品の新白岩焼を製作しています。

白岩焼の特色は、独特の海鼠(なまこ)釉で、藁灰釉を使い、白みがかった青くやわらかな色合いが特徴です。楢岡焼等、なまこ釉を施した陶器が多い東北ですが、白岩焼は独自の青に深みがあります。 

暗褐色の鉄釉地に、上からかけ流したなまこ釉のしたたりが特徴的で、秋田藩の藩窯と、暮らしの陶器をつくる民窯の2つの役割を持っていて、水甕、鉢、湯呑み、すり鉢、片口などから、硯(すずり)、人形などが作られていました。また、安産を願って近くのお寺に寄進した小さな千体仏などもあり、生活の中に白岩焼が溶け込んでいたことをうかがえます。

★ 作家 プロフィール ★

 渡邊敏明 (わたなべ としはる)

昭和25年6月11日、山形県上山市生まれ。

岩手大学教育学部特設美術科卒、在学中に陶芸に出会う。

昭和53年、すなおさんとの結婚を機に渡辺家に入る。

昭和50年代半ばからは、創作活動と平行して、岩手大学、秋田大学の講師も務める。

平成4年、登り窯完成とともに創作に専念する。

 
                                              (記 : 2014年3月12日)

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