12代土谷(つちたに)六郎右衛門(号:元斎)作・須佐焼(すさやき)の筒茶碗です。
大きさは、径:10cm、高さ:8.5cmほどで、「元斎」の陶印があります。
須佐焼の代表的な青白釉を使った豪快な仕立ての筒茶碗で、共箱があったはずですが、残念ながら離れてしまったようです。
高台をみると、切高台になっていて、萩焼の影響を受けているようです。(須佐焼の起源の方が早いので、影響を受けたのが、逆かもしれませんが・・・・・)
実は、最近まで、須佐焼の存在すら知りませんでしたが、先日買ったぐい呑みの箱書きが、須佐焼であったことから、須佐焼の存在を知り、この茶碗には共箱がなかったのですが、やきものの特徴と窯印から、須佐焼とわかりましたので、購入しました。
下の画像は、お箱と中身が入れ替わっていたぐい呑みで、どうもぐい呑みの特徴が、須佐焼と合っていないような気がして、14代土谷一史さんにメールをして、確認していただきましたが、「須佐焼ではない」との返答をいただいています。
その後、調べてみましたが、このぐい呑みは、広島にあった可能性のある一角焼で、越智角一さんの作品ではないか?と思っていますが、資料が少なく、よくわかっていません。
このお箱自体は、14代に、「12代の箱書きである」ことを確認していただいていますので、これと同様の共箱が、私の筒茶碗にもあったはずですので、ちょっと残念ですね。
★ 須佐焼(須佐唐津焼)とは ★
須佐焼(すさやき)、又は、須佐唐津焼は、山口県阿武郡須佐町(現:萩市須佐)で焼かれている焼き物で、明徳元年(1390年)に、大陸より日本に渡来した田原道仙が、肥前国唐津で開窯していましたが、1592年の文禄の役の頃、何らかの事情によって肥前国唐津を去り、長門国須佐郷に移り、築窯したのがはじまりとされています。
その後、須佐領主の益田家(萩藩永代家老)の、御用焼物師
として取り立てられ、土谷の姓を賜って、土谷鹿郎衛門と名乗り、益田公ならび萩藩の御用品を製作し、藩内の各地、又は北前船によって藩外、遠くは東北地方まで売り出されましたが、個人の密売禁止等、陶器生産販売には規制がありました。
明治に入ると、御用窯の役目を終え、販売が自由になりました。しかし、交通の発達に伴い、瀬戸焼や有田焼が入ってくるようになると次第に注文が減って、幕末には、11程あった窯元も、大正末期迄にほとんどが廃窯になってしまいました。
現在、須佐焼の秘伝を受け継ぎ製陶しているのは、須佐唐津窯だけとなっていて、江戸時代と変わらぬ方法で釉薬の調合、土の精製をし、製品は手作りで、殆どの作品を登窯で焼成しています。
須佐焼の特徴は、青磁釉を多用していることであり、朝鮮系の技術を持った陶工によって確立された焼き物ということですので、12世紀に全盛を迎えた高麗青磁や、粉青沙器の三島の影響を受けていると思われます。(日本最古の青磁陶制作窯とされてます。)
その他に、鉄釉(黒)や、ビードロ(青・白)釉、藁灰釉のものもあります。
現在は、14代土谷一史(号:道仙)さんが、12代、13代亡き後、窯を継承されています。
作品展示室
★ 古須佐窯跡 ★
昭和38
年(1963)
より、地元の有志による分布調査や試掘調査が行われ、多くの陶磁器片とともに青磁の破片が多数出土する地点が確認されました。
その結果、昭和41年(1966)から3年間、本格的な発掘調査が実施されることとなり、3基の連房式登り窯と、2ヶ所の物原(ものはら)(失敗作などを捨てた場所)が発見され、最古の窯である3号窯の物原の下層からは…
「まぼろしの須佐青磁」の破片が多数出土しました。
3号窯跡
(画像出典:てらこや埋文)
この発見により、遺跡が操業当初(江戸時代初頭)から青磁を生産していた日本最古級の窯跡であることが立証され、窯跡は、郷土の貴重な文化財として保存され、現在でもその姿をとどめています。
(記 : 2015年3月18日)
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