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四代 中野陶痴の唐津茶碗

唐津焼(からつやき)、四代 中野陶痴氏(中野窯)の唐津茶碗です。





唐津焼は、絵唐津、三島唐津、朝鮮唐津、斑唐津、粉引唐津等々がありますが、この作品は、絵唐津です。

作者の四代 中野陶痴は、中野窯の窯主で、中野窯の歴史は古く、安政年間に初代松島弥五郎が開窯。
二代中野霓林、三代中野霓林を経て、現在の四代中野陶痴氏に受け継がれています。旧唐津藩主六代小笠原長生公により、唐津藩の御用窯として認められ、三階菱の窯印を受けました。
 


現在は、長男一政さんと次男正道さんが、四代陶痴さんの後継者として、伝統的古唐津の再現に情熱を燃やす一方で、花文をあしらった器など若い女性に人気の新しい唐津焼の製作も手掛けられています。(「中野窯」該当ホームページ参照)

唐津焼(からつやき)は、一般的には、近世初頭から、肥前国(現在の佐賀県および長崎県)に散在する諸窯で生産された陶器の総称で、名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに由来するともいわれていますが、定かではありません。江戸時代以降、やきもののことを、東日本では、「セトモノ」、西日本では、「カラツモノ」と呼ぶように、日本を、二分するほど、唐津焼の名称は、多くの人々に親しまれてきました。

唐津焼は、豊臣秀吉が、朝鮮出兵の際に連れ帰った陶工たちによって始められたと言われていましたが、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は、文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられています。

安土桃山時代に、茶道が流行したことから発展し、「1楽2萩3唐津」と呼ばれるほど、わび茶碗として、定着しています。

江戸時代、肥前国では、材木等の資源保護のため、窯元を制限したことにより、唐津焼は衰退し、茶陶を焼くための御用窯としてのみ存続し、その間の焼き物は、幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれています。 

明治維新で、藩の庇護がなくなると、多くの窯元が廃窯となりましたが、後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など、伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させました。

現在、唐津焼の窯元は、唐津市とその周辺で20軒ほどあり、分派の武雄古唐津焼(窯元20軒余り)と共に、国の伝統的工芸品に指定されています。(武雄古唐津焼については、「武雄古唐津焼(つつえ窯)武雄古唐津焼(規窯)」参照)

唐津焼の特徴は、その多彩な作風、技法にあり、唐津焼の様式については、「唐津焼の基本的な様式」にまとめてありますので、ご参照ください。当ページの一部を、わかりやすいと思い、下に示しています。

 

絵唐津

素地に鬼板で文様を描き長石釉や灰釉などの透明釉を施し焼成する。文様は木・草・花・鳥・人物など単純で伸びやかなものが多くみられます。

古唐津は日本で初めて絵付けを施した焼き物だと言われています。

 

朝鮮唐津

黒く発色する鉄釉と白濁する藁灰釉の2種類を使用する。鉄釉を下に掛け藁灰釉を上から流して景色を表現したものです。(上下逆の場合もある)

 

斑(まだら)唐津

長石に藁灰などをまぜて焼成し、粘土の中の鉄分が青や黒などのまだらとなったものです。ざんぐりとしていて、厚めに釉薬がかけられた湯のみなどは味わい深い。

 

三島唐津

李朝三島の技法を伝承したものです。象嵌の一種で、器がまだ生乾きのときに印家紋、線彫、雲鶴などの文様を施して、化粧土を塗って削り、また拭き取り加工をした後焼成したものです。

 

粉引唐津

褐色の粘土を使い素地が生乾きのときに化粧粘土を全体に掛けて乾燥させた後に、釉薬を掛けたものです。

私は、朝鮮唐津が欲しいのですが、人気が高くて、中々、手頃な値段で手に入れることができません。いつか、チャンスが現れるのを、待っています。
                                               (記 : 2009年10月1日) 

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