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エピソードと共に、その起源や、特徴を、ご紹介しています。意外な場所に、
意外な、お宝があるものです。画像と共に、うんちくも、お楽しみください。 

膳所焼の茶入れ 

膳所焼ぜぜやき)の茶入れです。



共箱なし、象牙蓋なし、仕覆なしで、本体だけだったのですが、出来の良さと、陶印から、本物だと思って
買いました。(大きさは、高さ8cm、口径3.5cm ほどです。)

特徴から、恐らく、陽炎園造膳所焼だと思います。ただ、当初は、共箱も、仕覆も、象牙蓋もあったと思うのですが、大切にされていないというところが、気になりますね。(笑)



象牙蓋は、前に買って置いたものを合わせようとしたのですが・・・・・・

 
    以前にオークションで買っていた象牙蓋

結果は、この通りで、象牙蓋が、ワンサイズ大きかったようです。あっちゃ〜〜〜〜(泣)
外径3.5cm、内径2,7cmということでしたので、丁度良いと思っていたのですが、誤差がありました・・・・



同じような特徴の茶入れに、高取焼、瀬戸焼等がありますが、いずれも、大変高価ですので、茶入れは、合わせ物で、満足することにして、再度、象牙蓋を探すことにします。(笑)

膳所焼ぜぜやき)は、滋賀県大津市膳所にて焼かれる陶器で、江戸初期に起こった膳所藩のお庭焼です。

藩主菅沼定芳の時代(在任1621-1634年)に焼かれ始め、菅沼氏の後の藩主、石川忠総の時代(1634-1650年)に全盛期を迎えました。

作品は、専ら大名間の贈答用に用いる茶道具で、菅沼氏、石川氏と親交のあった大名茶人、小堀遠州
(1579-1647年)の指導を受け、茶人の間では「遠州七窯」の一つとして愛されました。薄作りで黒みを帯びた鉄釉に特徴があり、遠州好みの「きれいさび」と言われる上品なつくりで、特に茶入、水指が名高いです。

藩による焼物が始まる以前にも、この地方には既に桃山時代の末期より「勢多焼」と呼ばれる民窯が存在し、大江や国分の窯の名が知られていました。

藩による膳所焼はその後、茶人の嗜好の変化や、財政事情もあって長くは続かず、江戸後期に入ると、城下町に住む小田原屋という商人が梅林焼を興しました。交趾風の三彩釉を用い、意匠に凝った独特の焼物でしたが、これも財政事情により中絶しました。その後、幕末にも雀ヶ谷焼が興りましたが、明治維新とともに中絶しました。

大正8年(1919年)、膳所の人岩崎健三氏が膳所焼の廃窯を惜しみ、友人である日本画家、山元春挙画伯と
はかり、別邸の敷地内に登り窯を築いて再興しました。邸内には「東海道名所絵図」にも描かれた名勝「陽炎の池」(かげろうのいけ)があることから、春挙により「陽炎園」と命名されました。岩崎氏はその生涯をかけて膳所焼の復興に尽力し、現在は二代目岩崎新定氏が窯を引き継いでいます。

膳所焼の箱書きは、「淡海ぜ々 陽炎園造」となっているものが多く、同じデザインのものも、オークションで
見掛けられますので、元々は、下のような状態であったはずなのですが、私の茶入れの共箱・仕覆と象牙蓋は、いずこへ行ってしまったのか?(笑)


             私のものと、同デザインの膳所焼 茶入れ
                                            (記 : 2009年11月1日)

追記 1 :

この茶入れに合う仕覆を購入しました。



これで、私の茶入れも、少し、大手を振ることが出来るかな?(笑)
                                            (追記 : 2010年4月3日)

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