渋草焼(しぶくさやき)の六角形蓋置(渋草柳造窯)です。
渋草焼は、岐阜県高山市で焼かれる陶磁器で、現在、窯元が「芳国舎」と「渋草柳造窯」と二軒あり、これは、「渋草柳造窯」のもので、六代渋草柳造(戸田宋四郎)の作品です。
赤絵染付毛筆描画を施した手造りで、高さ 4cm、上部 4.5cmの六角形です。小さな蓋置きですが、中々の作品で、一見、磁器の赤絵のように見えますが、陶器です。
共箱、共布、栞付きでしたので、確かなものと思い、購入しました。
渋草柳造窯は、現在、当代渋草柳造さんの元に、長男柳平さん(昭和52年生まれ)、長女千日弥さん(昭和53年生まれ)、次男鉄人さん(昭和54年生まれ)が、窯を継ぐべく修行されています。
六代渋草柳造さん 次代を担う人たち
渋草焼は、天保11年に高山郡代、豊田藤ノ進が、陶磁器を自給自足すべく、瀬戸から戸田柳造を招き、商人・中村屋七兵衛が費用を負担し、官民共同の窯場を作ったのが、始まりとされ、原料に地元の渋草陶石を用います。
数年後、瀬戸や九谷といった磁器産地から陶工、絵師を招聘し、瀬戸や九谷の特徴を織り交ぜながら、飛騨赤絵、飛騨九谷と呼ばれる独自の磁器を生み出しました。
渋草焼(芳国舎作)
江戸幕府崩壊に伴い、一切の援助が打ち切られ、衰退。しかし、1878年(明治11年)に、三輪源次郎ら4人の率いる芳国舎(設立当初は陶甄社という名前だった)が、窯元を復活させ、有田や瀬戸に陶工を派遣して研鑽させました。
その後、松山惣兵衛(二代目渋草柳造)が独立、開窯しました。そして陶祖戸田柳造の意志を継ぎ、陶器と磁器の両方を兼ね備える日本でも類まれな窯として、今日の『渋草柳造窯』の礎を築き、現在、六代目が窯を継いでいます。
飛騨高山地方には、渋草焼以前から、小糸焼と、山田焼という焼き物がありましたが、唯一、本格的な産業
として成り立った焼き物のようです。 (「長倉三朗作・小糸焼の水指 」参照)
【作家 プロフィール】
六代目 渋草柳造 (戸田宗四郎)
昭和二十一年 岐阜県高山市に生れる
昭和四十年
父の元修行に入る
昭和五十六年 六代
渋草柳造襲名
五彩、赤絵、染付の絵の作風は他とは違う独特の暖かい味わいがあります。
(記 : 2009年11月20日)
追記 1:
渋草焼・渋草柳造窯作の「童子馬上杯」です。
桐印「柳三」
大きさは、高さ50mm、口径38mm程の小さな馬上杯です。渋草柳造窯としては、珍しい鉄絵で、「蝶を追う童子
」を描いており、灰釉が掛かっています。
赤絵では、童子を描いたものは、見かけますが、鉄絵では見たことがありません。
20数年前に、窯元でお買いになったとのことです。渋草柳造窯は、磁器と陶器の両方を持つ窯で、磁器は、染付けが多いようですし、陶器では、化粧土に赤絵を上絵したものは多く見かけられますが、あまりこの馬上杯のような土物は、見かけられませんので、時期的に見ても、六代渋草柳造になって初期のものかな?と思っています。
共箱の落款と栞が、上記の六角形蓋置と同じで、お箱も四方桟箱でしたので、確かなものと判断し購入しましたが、この共箱もそうなんですが、「竹洞舎」と窯印が入っているのが、何故なのか?(ほとんどの共箱に同じ印があります。)、今後、研究したいと思っています。(芳国舎に対抗したのかな?(笑))
近年の六代渋草柳造さんの作品は、自ら開発した桜文が特徴的で、六代柳造の十八番となっています。
桜文ぐい呑み
ただ・・・・・・手が込んでいるだけに、お値段もかなりいいので、中々、手に入れるのは難しそうです。(笑)
(追記 : 2010年9月16日) |