会津本郷焼(あいづほんごうやき)の、そば猪口(力窯・上野 力男作)です。
力窯(ちからかま)の上野力男さんは、エメラルドグリーン釉、灰釉、上絵、山水の染付のものを得意とする
陶芸家で、暮らしの食器を主に作られています。大正14年5月27日生まれですから、もうかなりご高齢ですね。
納豆鉢 上野力男さん
会津本郷焼の作家物は、生産されている数が少ないこともあって、中々、手頃なお値段のものが、市場に
出てこなくて、かなり苦労して、このそば猪口を入手しました。レア物かな?(笑)
会津本郷焼(あいづほんごうやき)とは、福島県会津美里町(旧会津本郷町)周辺を産地とする陶磁器で、1593年に領主である蒲生氏郷が、薩摩国から瓦工を呼んで、鶴ヶ城の屋根瓦を製造させたのが始まりとされています。
正保二年(1645年)に、藩主の保科正之の求めに応じて、瀬戸から陶工・水野源左衛門が呼ばれて、本格的に焼き物の基礎を築きました。以後、水野家を中心に藩用窯として栄え、日用陶器と藩主御用の茶陶器が多く作られました。
一方、1800年に、有田や京都で学んだ佐藤伊兵衛が、磁器の製法を伝え、現在の会津本郷焼の原型が完成します。現在は、大堀相馬焼(福島県双葉郡浪江町)についで窯元17と、東北2位の規模を誇っています。
(「窯元一覧」参照)
会津本郷焼で使われる釉薬に「飴釉」があります。飴釉は文字通り飴色で光沢を持っていて、この飴釉を使った代表的な陶器が「鰊鉢(ニシン鉢)」で古くから、ニシンの山椒漬けに使われてきました。
ニシン鉢
「ニシン鉢」は、四方を山で閉ざされた会津の冬を越す為に、この地の人々は、秋に仕入れたニシンを山椒の葉と交互に積み重ね、三杯酢に漬け込んで保存しました。それが、会津の代表的な郷土料理、ニシンの
山椒漬です。ニシンを漬け込む容器として生み出されたニシン鉢は、現在、伝統ある「宗像窯(むなかたがま)」でのみ作られています。
その作り方は独特で、まず、粘りのある地元白鳳山の的場土をたたき締めて、5枚の陶板を作ります。それらを手際よく継ぎ合わせたものを天日で自然乾燥させた後、飴釉を生掛けし、窯で焼き上げます。型で抜く方法を取らず、手間をかけて丁寧にひとつずつ作り上げられる所に、この器の味わいがあります。
会津本郷焼は、陶器と磁器が共存する窯場で、磁器を製作している窯元も多いのですが、とりわけ会津藩主保科正之が弓隊を配し開拓させた集落地である、御弓新田(現在の新町)の、唯一の磁器の窯元となった
佐竹富太郎の次男富三郎が明治5年に分家し、富三窯を開窯し、4代目富三は、日本原産の花椿をモチーフ
にし、染付の技術技法とともに、会津焼の伝統を現代に生かすデザインを創案しています。
(記 : 2009年12月23日)
追記 :
会津本郷焼、宗像窯七代目宗像亮一(むなかた
りょういち)作、灰釉窯変ぐい呑みです。
大きさは、径:7.6cm、高さ:4.4cmほどの、やや意図的に変形させて、デザインをした灰釉窯変ぐい呑みで、共箱、栞付きです。
会津本郷焼の作家もののぐい呑みは、中々、市場に出てこなかったので、ついにゲットすることが出来て、喜んでいます。
宗像窯(むなかたかま)のやきものは、享保四年(1718年)に始まり、専業となってからは八代目となっています。
中でも特筆すべきことは、1954年(昭和29年)に柳宗悦を始め河井寛次郎、濱田庄司、バーナード・リーチ各氏のご来訪を受け、大変な激励を受けたことです。
柳宗悦,河井寛次郎らが訪問
その後、1958年(昭和33年)には、六代目豊意(故人)がベルギーのブリュッセル万国博覧会にて、宗像窯伝来のにしん鉢が最高賞のグランプリを受賞しています。
七代目亮一は、第1回日本陶芸展において優秀賞を受賞し、宗像窯の隆盛の基を作っています。
平成17年町村合併により会津美里町(旧会津本郷)になり、宗像窯も八代目を利浩が継承し、現在でも地元会津産の的場土を主原料とし、生掛け焼成しています。
★ 作家 プロフィール ★
7代目 宗像 亮一 (むなかた りょういち)
1933年 |
宗像窯六代目豊意長男として会津美里町(旧会津本郷)に生まれる |
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1949年 |
この年より、父豊意に師事する |
1954年
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日本民藝館館長・柳宗悦氏始め河井寛次郎、濱田庄司、
バーナード・リーチの各氏のご来訪を受ける
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1970年
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父豊意他界し、宗像窯七代目を継承する
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1991年 |
会津本郷焼事業協同組合理事長となる(以後1998年まで)
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1997年 |
伝統工芸士認定
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2002年
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秋の叙勲にて勲六等瑞宝章
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現在 |
日本工芸会正会員
会津本郷焼事業共同組合理事長
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(追記 : 2012年6月2日) | |