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犬山焼の雲錦手・四方飾り皿

犬山焼(いぬやまやき)の、5代尾関作十郎作、雲錦手 四方飾り皿です。

犬山焼・雲錦手

いかにも、犬山焼らしい四方飾り皿で、もみじと桜の花が描かれた雲錦手(うんきんで)の作品です。

サイズは、約20.7 × 20.7 cm 高さ 2.5cmで、共箱、栞付きです。

絵のバランスから、真ん中に、料理を盛っても、映えそうなお皿です。



  

犬山焼(いぬやまやき)は、愛知県犬山市で焼かれている陶器で、およそ300年前の元禄の頃、丹羽郡今井村、現犬山市今井の郷士、奥村伝三郎が、宮ヶ洞に窯を築き、瀬戸風の飴、黒色の鉄釉織部の様な青釉を用いて焼き、犬山の窯印を捺用したのが始めであるとされています。当時の尾張犬山の城主、成瀬氏は、深く之を愛して、その後、成瀬家の「お庭焼」として保護を受け発展しました。以後盛衰を経て、現在に至っています。

特徴は、天保7年に始まったとされる「雲錦手」と言われる桜の花と、楓の葉文様、それ以前に始まっていた呉洲風の赤絵、天保6年、道平によって確立された犬山八景等の文様の染付けで、その文様が親しまれています。

 犬山本窯

現在は、犬山本窯、後藤陶逸陶苑、他2軒の窯元が、犬山焼を、焼かれているようです。

それぞれの窯元の代表作ですが、いずれも、雲錦手や、赤絵がモチーフになっています。

  犬山本窯 尾関作十郎陶房

  犬山焼窯元 後藤陶逸

  犬山焼窯元 美食器 たけ山(雲錦堂)

  犬山焼窯元 大澤久次郎陶苑

犬山焼の歴史について、犬山本窯のホームページから引用させていただきました。ご参考にしていただければ幸いです。(以下、引用文)

『 信長・秀吉の安土桃山時代に、可児市久々利の大萱・太平で栄えた美濃焼きの分派として、今井の奥村傳三郎が、今井宮ヶ洞で開窯したのが今井窯の始まりである。

今井窯の経営は、初代傳三郎のあとその子傳三郎(通称源助)が引き継ぎ、21年後の寛延4年(1751)8月に
源助が歿すると、その子六右衛門が三代目窯元になり、安永10年正月に亡くなったとされている。

犬山焼の祖は、宝暦年間(1751-1763)から今井村宮ケ洞で、[犬山]等の窯印を捺して焼きだされてた。

美濃焼の陶工による今井窯の時代は、安永10年(1781)、3代目窯主、奥村太右衛門がみぎ歿してその終わりを告げた。

それから約30年後の文化7年(1810)、当時の犬山城城主第7代成瀬正壽は、今井窯の廃絶を惜しんで、犬山焼の再興をはかり、犬山上本町の島屋惣九朗に命じて、犬山白山平の南麓に茶碗焼場2反6畝20歩、土取場3畝10歩を貸し与え、燃料用松材を丸山付近の山林から伐採することを許す等の援助を与えて、丸山窯を創業させたと言われる。

惣九朗はどこから職人を入れ、どのような製品を焼きだしたか等の記録も、それと推測される製品らしき物も
全く不明で、その生産が行われたとしても、極めて微々たる物であったと思われる。

文化14年(1817)になって、やはり上本町の住人で、綿屋太兵衛(大島暉意)がこの窯を譲り受け、一宮在の
大海道に住む叔父に当たる人の紹介で、京都三条の粟田焼きの陶工であった、藤兵衛、久兵衛の両名を雇い入れて、粟田焼きに似せた薄手の大根焼きなるものを焼いた。

しかし、1窯から40両位の揚がりがあるという藤兵衛の布令込みに反して、半焼けや疵物ばかりで無事物はようやく2歩止まりということで、到底採算の取れる状態ではなかったようである。

そこで、太兵衛は瀬戸系の信頼のおける陶工を入れ挽回を図ることとし、文政5年(1822)3月、成瀬家の知行所であった春日井群上師段味村から、加藤清蔵を招いた。

清蔵はまだ年は若かったが、大物作りを得意としたロクロ挽きの名工でもあり、窯焼きにも熟練していたらしく、丸山に住んで作陶に専念したため、かなりの成果を収めたようである。

また、同9年(1826)には同じ師段味から加藤寅蔵が来て、清蔵の窯で染付磁器の製造を始めた。

しかし、窯主の太兵衛は、創業以来10年近い間にかなりの資産を注ぎ込み、しかも経営は職人まかせであったため、自分への利益は殆んど還元されなかったようである。

天保初年には、遂に事業から手を引くこととなった。

ようやくにして発展のきざしが見え始めた時機だけに、城主はこれを惜しんで、清蔵に資金を扶助して窯主と
した。

清蔵の苦心経営と、寅蔵の瀬戸でも見られぬ純白磁器の製造が軌道にのって間もなく、天保2年(1831)には、師段味から水野吉兵が来て、清蔵の窯に協力し、瀬戸ではやらぬ赤絵付けを開始した。

吉兵はどこで赤絵の技術を見に付けたかはわからないが、その方法も追々進歩をみたようである。

この吉兵は、後に松原仙助の娘と婿養子となり、名も惣兵衛と改めた。

天保6年(1835)、松原惣兵衛と懇意な、名古屋伝馬町の筆墨商大学堂の紹介で、陶画工逸兵衛を雇い入れた。

この人は通称道平と呼ばれており、京都の奥田頴川と並び称される赤絵の名手であった。

こうして、清蔵の窯で寅蔵の作り出した純白の素地の上に、惣兵衛・道平等が赤絵の筆を振るって、一挙に
発展の気運に向かったのを喜んだ城主は、この機を逸せず犬山焼を振興するように、天保7年には、更に援助を与えたということである。

天保9年には、7代城主正壽が逝去し、8代正住が封を継いだ。

この正住は、城郭内の三光寺御殿の庭に絵付窯を築造させ、城主の財力で蒐集した、明代の赤絵呉須の大皿や鉢等を手本にして模写させたもので、本歌と比べて殆んど遜色のない見事な製品が作られており、実に驚異的な進歩であったと思われる。

また、画家の福本雪潭に春秋に因んで、桜ともみじの下絵を描かせ、これに倣って雲錦手の絵付けを命じたと伝えられ、今日まで、犬山焼のシンボルとして、広く愛好されている。

またこの頃、道平が、犬山八景の図をはじめて酒壺に描いたものものこされている。

この頃、犬山では盛んに土人形が作られており、素焼きした型作りの雛人形や、武者人形等に泥絵の具を塗って彩色を施したものであったが、その人形の細工師であった、兼松所助が清蔵の窯に招かれて、陶製や
磁器製の香炉、狛犬の細工物を手掛けていた。

継鹿尾山寂光院旧蔵の仁王蔵の香炉には、細工人初助(所助)、窯方清蔵、吉平赤絵師逸平衛の作人一同の銘があり、犬山焼の貴重な名品であったが、今は所在不明となっている。

満蔵院へ惣兵衛が寄進した磁製の狛犬も、格調高い作品であって、ヘラ彫りで兼松助作とある。

その他にも信仰心の篤かったと思われる惣兵衛等の寄進した、香鉢、花瓶等に作者銘の入ったものが、市内の寺社等に数多く保存されており、当時の工人達の作風を知る上からも貴重な存在である。

また、所助は陶器の絵付けにも秀れた作品を残しており、赤絵に花鳥を配したものがおおく、緑の中に若竹色でアクセントを付けた絵付けには、個性的な作風が感じられる。

嘉永4年(1851)から犬山焼の絵付けに参加し、明治30年迄の46年間、犬山焼の陶器の絵付一筋に生きた
成瀬家家臣の近藤清右衛門は、廃藩後は清九朗秀胤と名乗り、二村と号した。

このひとは、寺島華溪について狩野派を能くしたといわれる。

当時、規式以下の同心には、勤務の余暇に内職が許されていたので、清蔵の職場で天性の画才を生かした
人であった。

道平、所助等とともに常に陶画について研究し、論じ合って大いに犬山焼の絵付けに改良を加えたひとであった。

城主の所蔵品の中から、交趾焼の品々を写したものも残されており、廃藩後は作十郎の窯にあって、幾多の
業蹟を残した。

嘉永6年(1853)には、素僊堂川本治兵衛が、同じく瀬戸から井上良吾を伴って犬山窯へ来て、丸山窯を築いて、祥瑞写しの染付け磁器を焼いたと伝えられているが、窯の耐火材料の関係からか、窯のトラブルが続き、製品は2・3割程度の歩止りであったようである。

そのうえ犬山窯の職人との摩擦でもあったのか、わずか1年余で瀬戸へ引き上げ、その後は江戸へ移ったと
伝えられる。

天保13年(1842)、犬山城の南東方にある、余坂村の犬山城御用瓦師高山市朗兵衛の、株を譲り受けた尾関作十郎信業の瓦窯から出火した火災は、折からの南東風にあおられて、余坂・魚屋町を焼き尽くして城内に延焼する大火となった。

その責を問われ、一宮の代官所に連衡されたが、住民らの嘆願により罪をゆるされ、3日ほどで放免となった。

作十郎は、火災のことを考慮して丸山へ移し、さらに、加藤清蔵や惣兵衛の犬山焼を援助したが、両名の経営が不振となったので、慶応2年(1866)九月に至って作十郎は、この株を譲り受ける事にした。

信業は天性怜悧で学問に親しみ、当地方の殖産を考え、自ら養蚕すら試しに手がけたという。

隠居後は関平といい、俳句もたしなみ、俳名を閑夫と号した。(明治12年八月歿)

明治元年、犬山藩が誕生し、同四年四月には犬山藩物産方でも工業振興のため窯業を始め、加藤善治に窯方を担当させたが、翌五年の廃藩と共に廃止された。

一方信業のもとでは、清蔵・惣兵衛の二人が協力して、明治四年のオーストラリア博覧会に犬山焼を出品したが、まもなく両名とも高齢のために廃業した。

信業は、その間次第に犬山焼の生産量を高める一方で、明治十年には内国勧業博覧会へ出品し、さらに各府県博覧会・共進会にも積極的に出品し、技術の革新につとめていた。

そうした実績を買われて、明治十一年には愛知県から「陶器製造資本金」として、三百円の貸与をうけた。

信業やその子、信美(二代作十郎)は、独立小資本での将来を思案し、また時の群長松山義根の助言をうけ、明治十六年十一月に至って、町内外から出資者を募って犬山焼会社を設立したが、この際にも愛知県は、資本金の一部にと、四百八十円を、貸与して犬山焼の育成を図った。

ところが、明治二四年の濃尾大地震による被害は甚大で、工場のすべてが大破したため、ついに会社を解散して、廃業のやむなきに至った。

二代目作十郎は廃絶を憂い、窯を復興した。』

現在は、5代目、6代目、7代目尾関作十郎が、犬山本窯で、作陶に励んでいます。

                                               (記 : 2010年2月1日)

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