九谷焼の九谷庄三洞 四代善平の武腰昭一郎作の、窯変茶碗です。
見事な窯変茶碗ですが、九谷焼のイメージとは、少し、違ったイメージかもしれませんね。
大きさは、直径約12.5cm、高さ約6cmで、共箱付きです。
武腰昭一郎さんは、昭和2年に石川県能美市寺井町で生まれました。九谷焼中興の祖として有名な九谷庄三(しょうざ)には世嗣ぎがなく、高弟であった初代武腰善平が相伝を受け、そこから数えて四代目にあたります。
北出塔次郎先生に師事し、また三代善平の指導を受け家業に精進しましたが、昭和60年、享年59歳で亡くなっています。
現在は、長男の武腰一憲さんが、九谷庄三洞の五代目を継いで、活躍されています。
尚、武腰善平の子、初代武腰泰山が、分家し、その子三代泰山(武腰 敏昭)の長男が、泰山四代目 武腰 潤さんであり、次男?四代武腰冬樹さん、娘さん?の武腰美枝子さんが、現在、活躍中です。
ここで、再興九谷で、大きな足跡を残した九谷庄三(くたにしょうざ)についてまとめておきます。(九谷焼・なごみより引用)
九谷庄三 : 文化13年〜明治16年(1816〜1883)
庄三は、石川県能美郡寺井の農家の生まれで、九谷各地の窯で修業し、天保3年17才のとき、陶匠として小野窯に招かれ、
赤絵細描や粟生屋風色絵の優れた作品を作りました。天保6年よりのとの梨谷小山焼や越中の丸山焼より
陶技の指導にまねかれ、天保12年に26歳で寺井に帰り、陶画工として独立、庄三と改名しました。
天保6年には、上絵顔料を求めて山野を探索しているうちに、火打谷に岩土を発見しています。世にいう
「能登呉須」で、後世の九谷焼絵付の顔料として貴重な発見です。
また、幕末から明治初期にかけて輸入された洋絵の具を、いちはやく取り入れ、中間色の絵付を行っています。
慶応元年(1865年)独特の色調のある赤・えん脂・白盛・黒・茶色と、彩色色といわれる緑・黄・紺・青・紫・
淡緑と更にこれらの色をそれぞれ交ぜることによって、その中間色を出すことに成功し、この多彩な色を駆使して、彩色金欄手という絵付を確立しています。(「九谷焼の香炉2点」参照)
彩色金襴手香炉
この画風が産業九谷焼の主流となり、全国に普及していきます。また外国貿易品としての好みに適し、
同時に政府の輸出奨励策にもすすめられ、明治前半の輸出貿易品として大量に輸出されました。
今日でも、この庄三風が代表的な九谷焼であると多くの人に思われているほどです。海外の九谷焼展示品も、
この庄三風作品が多く占めているようです。
庄三は、明治16年に68歳で没していますが、教えを受けた弟子は300人を超えているといわれています。
寺井九谷の隆盛の基礎を築いた人です。
武腰昭一郎さんは、九谷庄三の伝統を引き継ぎながらも、新しいものにも挑戦されており、この窯変茶碗も、その1つではないか?と思っています。
これは、あくまで、私見ですが、三代目徳田八十吉に刺激を受けて、従来の庄三スタイルだけでなく、新しいものに、挑戦したのではないか?と思っています。
3代徳田八十吉作・耀彩遊線文壷
(記 : 2010年3月18日) |