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九谷焼・加登明雄作・酒盃

九谷焼の伝統工芸士の加登明雄作・吉田屋風朴葉二鳥文盃です。









加登明雄さんは、武腰敏昭氏を師とし、吉田屋風の写しを得意としている作家で、この酒盃も、これぞ「青九谷」と言えるような作品です。(武腰敏昭氏(三代泰山)は、「武腰昭一郎作・窯変茶碗」参照)

大きさは、高さ 4.1cm、口径 7.4cm、高台 4.5cmで、共箱、共布、栞付きで、見込みには、「朴葉二鳥」が、見事に描かれています。

吉田屋風とは、古九谷風で使われる五色(赤・黄・青(緑)・群青・紫)のうち、赤色を使わない作風で、青九谷とも言います。

九谷焼の歴史は、大きく4つに分類することが出来(古九谷再興九谷中興の祖新九谷)、吉田屋窯は、その中で、再興九谷と呼ばれている時期のものです。尚、古九谷については、「古九谷の謎」をご参照ください。

ここで、再興九谷の代表的な窯元について、まとめておきたいと思います。

  • 春日山窯(文化4年-1807年)
  • 若杉窯(文化8年-1811年)
  • 小野窯(文政2年-1819年)
  • 民山窯(文政5年-1822年)
  • 吉田屋窯(文政7年-1824年)
  • 木崎窯(天保2年-1831年)
  • 宮本屋窯(天保3年-1832年)
  • 蓮代寺窯(弘化4年-1847年)
  • 松山窯(嘉永元年-1848年)

    古九谷が廃窯して、約100年後、金沢の春日山で窯業が再興されたことを機に、大聖寺藩内でも九谷焼再興の動きが起こりました。

     吉田屋窯(1824〜31)は、大聖寺の豪商豊田伝右衛門が古九谷再興をめざし、古九谷窯跡地に開いた窯です。その後、古九谷窯跡地は不便な場所にあることから、山代に窯を移しました。青手古九谷の「塗埋手」を踏襲しており、一見青く見えるので「青九谷」と呼ばれています。

     木崎窯(1831〜70)は、京都に出て画を学び、有田で陶画を学んだ木崎卜什が築いた窯です。その子万亀は京都の名工永楽和全に師事し、窯を春日山に移しました。親子共に赤絵密画の優品を残しました。

     宮本屋窯(1832〜59)は、宮本屋宇右衛門が、休窯した吉田屋窯を買収し再興させた窯です。主工飯田屋八郎右衛門は、絵付に主力を注ぎ、赤絵細描の優品を焼成しました。この窯の赤絵細描の画風を「八郎手」、または「飯田屋」と呼んでいます。

     松山窯(1848〜72)は、大聖寺藩が、山本彦左衛門に命じて江沼郡松山村に築かせた窯です。名陶工の粟生屋源右衛門らを招き、藩の贈答用品を作ました。

     若杉窯は、有田風を得意としました。

    九谷焼は、これらの窯が立ち上がった後、中興の祖と呼ばれる、九谷庄三(文化13年(1816年)-明治16年(1883年))が、彩色金欄手を確立し、庄三風を興すまでを、再興九谷と呼んでいます。

    尚、中興の祖、九谷庄三(くたにしょうざ)については、「武腰昭一郎作・窯変茶碗」をご参照ください。

     
               吉田屋窯 山鳩太湖石図平鉢 径38.3cm (小松市立博物館所蔵)

    ● 加登明雄 プロフィール ●

    昭和17年生
    昭和45年に、九谷焼の道に入る。
    小松市若杉町に築炉された若杉窯より出土した若杉焼の作品に魅せられ、昭和50年より日展作家(会友)、日本新工芸連盟委員、武腰敏昭先生に師事し、青九谷上絵釉薬を修得し今日に至る。

    昭和54年 第35回現代美術展入選
    昭和63年 第27回北陸中日美術展入選
    平成 2年 第22回日展入選
    平成 3年 第1回日工会展入選
    平成 8年 第28回日展入選 以後連続入選
    平成10年 日工会会員推挙

    私のこの酒盃、中々の、名品と見ましたので、大切にしたいと思っています。
                                                (記 : 2010年3月30日)

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