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虎渓山 水月窯作・紅白梅徳利

美濃焼(みのやき)の、虎渓山 水月窯(こけいざん すいげつがま )作・紅白梅徳利です。











虎渓山 水月窯の十八番の1つの紅白梅図徳利です。

大きさは、胴径:8.8cm 、高さ:12.6cm、口径:4cm程で、共箱付きです。

人間国宝の故・荒川豊蔵氏は、桃山風の志野、瀬戸黒、黄瀬戸などの再現を試みましたが、その一方で、「美濃焼の伝統を生かしながら普及品も提供したい」との思いで、昭和二十二年の秋、岐阜県多治見市虎渓山の永保寺が所有する山林を借り受けて、水月窯を開きました。

子息の武夫氏・氏に引き継がれ、プロパンガス主流の今もなお、登り窯を使い続けている貴重な窯元です。北大路魯山人の作陶に協力した事もある豊蔵氏の意志を受け継いだ作品の数々は、一目で水月窯の作とわかるほど個性的なものが多いのが特色です。

現在は、三代目 当主 荒川広一さん(荒川豊蔵の次男達さんの長男)が、水月窯を継いでいます。

 水月窯

手轆轤にこだわり、連房式の登り窯で、素焼きをせずに天日干しで十分乾燥させた後、一回で、松割り木の高温で二日間焼き上げます。登り窯にしては二日というのは短く思いますが、えんごろという入れ物にひとつずつ入れるので窯入れに一週間かかるそうです。そして、その後、絵付けをした後は、単室の窯で焼き上げられます。

 (I・E・I アートギャラリーより)

この徳利は、鉄絵で、枝の部分や、窯名を描いて本焼きした後、梅の花と葉を上絵描きして、焼き付けているものです。紅梅に、融点の低い金彩で装飾していますから、さらにもう1回焼いているのだと思います。手間が掛かっていますね。

美濃焼(みのやき)は、岐阜県美濃地方の東部、東濃地方といわれる地域の西端をしめる、多治見市・土岐市・瑞浪市・笠原町で生産されるやきものの総称を言い、和食器の全国生産の60%以上を生産する陶磁器の生産地になっています。

ですから、商業化された窯元が多くて、作家ものが少ない焼き物でもあります。

最も有名な窯元が、幸兵衛窯で、文化初年(一八〇四年)初代加藤幸兵衛により、美濃国市之倉郷にて開窯されました。六代加藤卓男(一九一七〜二〇〇五)は、人間国宝に認定され、現在は、七代加藤幸兵衛が、継承している窯元です。三十余名の熟練職人を擁し、品格ある和食器の制作をされています。

このように、個人窯というよりは、ある程度の量産が出来る窯元が多いのが、美濃焼の特色でもあり、瀬戸焼や、益子焼のように、何でもありの焼き物になって、「特徴がないのが、特徴」となっています。

そんな中で、水月窯は、粉吹風と呼ばれる独特の釉薬で、特徴を出しています。

 
        紅梅ぐい呑み                      粉吹風花入

ここで、虎渓山 水月窯の生みの親の荒川豊蔵氏について、プロフィールを、ご紹介しておきます。

★ 荒川豊蔵(1894〜1985) ★

明治二十七年、岐阜県多治見市に生まれる。
大正十一年、京都の宮永東山窯で作陶を始め、翌年、北大路魯山人と知り合い、親交。
昭和二年、魯山人の求めに応え、北鎌倉の星岡窯の窯場主任となる。
昭和五年、美濃大萱(現・可児市)で桃山茶陶の古窯跡を発見。以後、古窯跡群の発掘調査を行う。
昭和八年、星岡窯を辞して大萱に開窯。
昭和二十二年、多治見の虎渓山に「水月窯」を開く。
昭和三十年、重要無形文化財保持者(志野・瀬戸黒)に認定。
昭和四十年、紫綬褒章受章。
昭和四十六年、文化功労者、文化勲章受章。
昭和六十年、逝去。

尚、陶芸家で、人間国宝から、文化勲章を受賞しているのは、富本憲吉濱田庄司荒川豊蔵 の3人だけです。
                                               (記 : 2010年8月14日)

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