琉球漆器の老舗、「角萬(かくまん)」製の黒堆錦鳳凰紋丸盆(くろついきん・ほうおうもん・まるぼん)です。
「琉球角萬」印
大きさは、径:33.7cm、高さ:2.0cmで、黒漆の地に、朱漆は、特産の粘土(クチャ)粉にボイル桐油(とうゆ)を混合したものを用いてもので、この桐油を混ぜることで上塗りの朱漆(しゅうるし)をより鮮明に発色させる効果があるそうです。それに、堆錦(ついきん)の加飾がなされており、とても迫力があり、素晴らしい美術品となっています。
製造元の、「角萬」は、沖縄県那覇市にある、創業120余年の琉球漆器の老舗で、昭和33年に、前身の「嘉手納漆器店」から、「角萬漆器」に改称していますから、この丸盆は、昭和33年以降の作品ということになりますが、その前から、「角萬」は、使われているようですので、本土復帰前の昭和の作品のような気がします。
「角萬」の歴史を見てみると、戦争で途絶えそうになった琉球漆器ですが、意外にも、戦争で亡くなられた方々のトートーメーと呼ばれる位牌の注文が増えたことにより、復活し、次第に生活が落ち着くと、椀や重箱といったものも買い求められるようになり、1972年(昭和47年)の本土復帰で、生産量が増えました。
しかし、その頃から、琉球漆器の特徴である木材のデイゴ材が不足するようになり、「バカス」という合成材を使い始めましたが、「角萬」の嘉手納並裕氏は、デイゴ材との品質差と、伝統工芸である琉球漆器の将来に不安を感じ、昭和49年以降、バガス利用をやめました。
伝統的な琉球漆器を愚直に作りつづけることを目指した嘉手納並裕氏は、昭和54年に「現代の名工」として労働大臣賞を受賞し、伝統工芸技能功労者として、勲六等瑞宝章を受章しています。これは漆工芸では初めての叙勲でした。
こういった環境の中で作られたのが、私の琉球漆器ですが、最近は、ハイビスカス等の観光客受けのする文様の作品が多い中、伝統的な堆錦技法で鳳凰を描いており、名品だと思います。
琉球漆器については、「漆器(漆工芸)のはなし」で、まとめていますので、ダブルようになりますが、琉球漆器について、まとめておきます。
★ 琉球漆器 ★
琉球漆器(りゅうきゅうしっき)は、沖縄県那覇市を中心とした琉球諸島で発達した漆器で、14世紀から始まった中国へ貢ぎ物を送る貿易とともに、中国からその技法が伝わり、発達したものと考え
られていますが、創始の経緯ははっきりとしていません。
17世紀初頭には、首里王府に貝摺(かいずり)奉行所という漆器の製作所
が設置され、技術的にも芸術的にも水準の高い工芸品を作るようになりました。
1609年には、薩摩が琉球へ侵攻し、その支配下に置かれましたが、その高い芸術性故に、徳川家や大名家へ、琉球漆器などを献上してきました。
琉球漆器の特徴は、次の3点です。
1.漆器に使われる材木に、「梯梧(でいご)」という内地では見られない材料を使っていること。
2.下地に、豚血(とんけつ)を利用することで、豚血を地粉と練って、下地とします。
3.上塗りの色が鮮明で、堆錦(ついきん)という加飾法があること。
堆錦という加飾法ですが、どこかで見たことがあると思ったら、イギリスのウェッジウッド社の、「ジャスパーウエア」と同じような手法ですね。(ジャスパーウエアは、「マイセンと柿右衛門」を参照)
堆錦の手法についての映像が、「角萬」のホームページにありますので、ご参照ください。
また、琉球漆器の技法には、尚家が、琉球王として栄えた17世紀には、螺鈿細工に特色のあるものがあり、ソマタ、又は、杣田(そまた)と称する螺鈿技法があり、東道盆(トゥンダーブン)と呼ばれる、琉球王国の宮廷料理を
盛りつけるための器などが作られました。
中国、北京の故宮博物館には、琉球国王から中国皇帝へ献上された、複雑な漆芸技法による螺鈿(らでん)と、堆錦(ついきん)の東道盆(トゥンダーブン)2点が保管されているそうです。
東道盆(角萬)
1879年の琉球処分(廃藩置県)以後、貝摺奉行所は廃止されたため、高級漆器の生産は激減し、琉球漆器は、民間工房や漆器会社による、一般向けの食器やみやげ物として制作される事が多くなっていきました。
私は、こうして琉球漆器を調べているうちに、我々は、本当に琉球の歴史を知らないんだなと自覚させられました。日本語を話しているんだから、日本なんだろうなくらいにしか思っていませんでしたね。
特に、引っ掛かった言葉が、「薩摩の琉球侵攻」と、「琉球処分」です。
現在、尖閣諸島問題で、政府は、「日本固有の領土」と言っていますが、本当にそうなんでしょうか?
まず、国営沖縄記念公園のオフィシャルサイトには、
『琉球王国とは、今から約570年前(1429)に成立し、約120年前(1879)までの間、約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国のことである。
日本の鎌倉時代に当たる12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめた。各地に「按司(あじ)」とよばれる豪族が現れ、彼らが互いに抗争と和解を繰り返しながら次第に整理・淘汰され、やがて1429年尚巴志(しょうはし)が主要な按司を統括し、はじめて統一権力を確立した。これが尚(しょう)家を頂点とする琉球王国の始まりであった。』
とあります。要するに、琉球王国は、日本ではなかったということです。
そして、沖縄県公文書館のホームページには、
『1609(慶長14)年4月1日、島津氏の琉球侵攻により、琉球国王の居城である首里城が島津の薩摩軍に占拠されました。
島津家久は徳川家康から琉球の支配権を与えられるとともに、奄美諸島(大島・徳之島・喜界島・沖永良部島・与論島の五島)は薩摩の直轄領(ちょっかつりょう)になりました。
これ以後、260年余に亘って、琉球は薩摩の支配下で、国家としての存続が認められました。』
とあります。要するに、薩摩藩が、琉球王国を攻めて、支配国家にしてしまったということです。沖縄が、日本固有の領土であるなら、「侵攻」という言葉を使うのでしょうかねぇ?
しかし、その支配権はどうか?というと、実は、琉球王国は、中国(清)の方を向いており、実際には、中国(清)の属国扱いだったようです。
次に、「琉球処分」についてですが、こちらは、ウィキペディアからの引用ですが、
『琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)とは、1872年から1879年にかけて、旧来琉球諸島の施政を委任してきた中山王府を廃し、県を置いた施策の事である。
1872年(明治5年)9月14日、天皇より、尚泰を、藩王に封じ、華族に列せらるる詔勅が下される。
1879年1月26日、松田道之再度琉球に出張し、清国との絶交を督促する。同意得られず。
1879年3月27日、松田道之三度琉球に出張。首里城に入り、城の明け渡しと廃藩置県を布告した。』
中国(清)の属国であった琉球王国を、琉球藩に格下げし、清国との絶交を要求するも断られて、勝手に、廃藩置県を宣言したということですね。
これに対し、清国が、黙っているわけはなく、同じくウィキペディアより、
『清は、この動きに反発し、両国関係が緊張した。翌1880年(明治13年)、日本政府は日清修好条規への最恵国待遇条項の追加とひき替えに先島諸島の割譲を提案した。清も一度は応じ、仮調印したが、李鴻章の反対によって妥結にはいたらず、琉球帰属問題も棚上げ状態になった。
最終的な領有権問題の解決は1894年(明治27年)の日清戦争後で、戦争に敗れた清は台湾を割譲、同時に琉球に対する日本の主権を認めざるを得なくなった。琉球処分以降の、中華民国の、尖閣諸島を含む沖縄諸島の認識は、日本領として正式に承認し、両国間では一応の決着がついていたことが判明している。』
政府が、尖閣諸島は、「日本固有の領土である」といっているのは、この時の合意に基づいているわけで、高々、120年前の話をしているだけで、しかも、日清戦争で奪い取ったと認識するのが、普通の考え方ではないかな?と思われます。
いずれにしても、琉球漆器は、貿易相手国だった中国(明〜清)の属国であったが故に、高度に発展した文化であり、北京の故宮博物館には、10点もの琉球漆器が残されており、それらは、中国皇帝への献上品だったと思われています。
漆器は、「漆器(漆工芸)のはなし」でも、取り上げていますが、日本が起源の工芸とみられていますが、タイやインドまで広まったわけですから、漆の木があれば、どこでも出来るという利点を生かして、琉球でも発展したのだろうなと思えますね。
そして、戦後ですが、右の切手が示すように、アメリカの統治の下で支配され、1972年に本土に復帰していますが、未だに、アメリカ軍の基地の80%が沖縄にあるという状況が続いています。
この切手は、琉球漆器の椀を描いた、1963年に発行された切手ですが、「3c」、3セントの切手であり、3円の切手ではないんですよね。当時のレートが、360円だとすると、10円ですね。
朱漆の地に、何色かの堆錦で文様を描いていますが、素晴らしい出来です。
(記 : 2013年3月8日) |