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エピソードと共に、その起源や、特徴を、ご紹介しています。意外な場所に、
意外な、お宝があるものです。画像と共に、うんちくも、お楽しみください。 

浄法寺塗の汁椀

浄法寺塗(じょうほうじぬり)の溜塗蓋付き汁椀です。







大きさは、径:11cm、高さ:9cmで、出品者によると、手引きろくろで挽かれた、江戸末期から明治頃のお品ということです。

黒に近い溜塗(ためぬり)で、使い込んであるために、光沢がきれいに出ています。溜塗は、下塗り、中塗りの後、最後に透明漆を塗り立てにする技法で、時間が経つと、透明度が増し、下塗りした色が透けて見えてきて、年と共に、色が変わってくるのが特徴です。

浄法寺塗は、殆どが、無地の本朱・黒・溜色による光沢を抑えた単色の仕上げですが、国産漆を原材料として用いていますので、非常に高価です。1客とはいえ、浄法寺塗を手に入れて、うれしく思っています。

★ 浄法寺塗とは ★

浄法寺塗は、岩手県二戸市浄法寺町を中心とする地域で作られている漆器で、最大の特徴は、この地域で生産されている国産の生漆を使用していることです。

今は、国内で消費されている漆の98%は、主に中国からの輸入品で、国産漆は、輪島塗の一部と浄法寺塗に使われています。(国産漆は、今では、岩手県、青森県、秋田県の一部で生産されているだけです。)

浄法寺塗であっても、下塗りには、輸入品が使われているものがあり、それは、お値段に直結しますので、お手頃価格のものは、浄法寺漆が、上塗りだけに使用されているという場合があります。多くは、きちんと表示されていて、純粋に浄法寺漆だけを使ったものと区別されています。(浄法寺漆だけ使用のものは、大変高価です。)

浄法寺塗の起源は、今からおよそ1200年前、奈良時代の神亀5年(728年)に、行基がこの地に八葉山天台寺を建立し、京から派遣された寺の僧侶の手で、自家用什器が作られたことに始まるとされてます。

 

「御山御器」と「御山膳」 

藩制時代には、南部藩の重要な産物として、天台寺周辺から旧安代町付近まで産地を拡大し、「御山御器(おやまごき)」の名前で知られる、飯椀・汁椀・皿の三ッ椀のセットが、天台寺の例大祭の日に、境内の露天で売られていたために「漆器=御山」として、庶民の生活に浸透していったようです。

「御山御器」をはじめとする庶民の漆器は、大正・昭和にかけて需要が高まり、国内はもとより海外にも販路が広がりました。

現在は、八幡平(はちまんたい)市や盛岡市でも生産されています。

浄法寺塗の名前 は、中世に岩手県北部を支配していた豪族「浄法寺氏」に由来しており、地名にもなりました。その後、安代町荒沢地区周辺で作られた漆器が、浄法寺町の市で売られたことから、浄法寺塗と云われるようになったようです。

浄法寺塗の特徴は、その丈夫さ、色の美しさ、飽きのこない柔らかな艶の質感にあります。地元産の漆を使い、「蒔地法」という下地法で製作しています。水を使用していないので、比類のない強度で堅牢な下地で、余分な色彩や模様がなく(江戸時代には、献上用の大きな金箔を貼った「南部箔椀」のように華やかなものもありますが)、その殆どが、無地の本朱・黒・溜色による光沢を抑えた単色の仕上げとなっており、シンプルで実用的なのが特徴です。

上塗りを終えた状態で仕上がった漆器は、最初は艶がなく、マット仕上げ状になり艶がありません。それが、毎日使うことによって磨かれ、5年後、10 年後にはツヤツヤとした艶が出てきます。

原木は、トチ・ケヤキ・ミズメ・クワなどが使われていて、昔から汁椀・飯椀・片口等暮らしの中で使われる漆器が作られています。




             浄法寺漆の掻き取り作業の様子

浄法寺塗は、秀衡塗と共に、南部藩で生産された漆器の総称である「南部塗」として、産地分裂という珍しい形で、国の伝統的工芸品に指定されています。(「秀衡塗の小吸椀・箸・箸箱」参照)
                                              (記 : 2013年11月23日)

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