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紀州漆器の花瓶

野原健一商店販売の本根来塗紀州漆器花瓶です。













大きさは、高さ:21cm、径8.8cm、共箱、栞付きです。

紀州漆器を生産している黒江地区では、完全分業制で、木地部会、成形部会、沈金部会、蒔絵部会、塗料部会、卸販売部会、製造部会等々に分かれて作業を行い、製品を製造、販売しています。

この花瓶は、漆器の卸を担当する野原健一商店が、販売したものになります。

ここで、「本根来塗」とありますのは、元々、根来塗は、黒漆で下塗りをし、その上に朱漆で上塗りしたものですが、使用するにつれて、自然に表面の朱塗りが磨滅して下塗りの黒漆がところどころ露出し、それがかえって趣あるものとして茶人に喜ばれました。それを、根来塗(ねごろぬり)というようになりました。

本品は、朱塗りを掛けた後、意図的に、黒漆の地肌が出るように磨き出して模様をつけて、根来塗に仕上げています。本来の根来塗は、使っているうちに、自然に漆が摩耗して、下地が出てくるものになります。

根来塗については、「根来塗の椿皿」を、ご参照ください。

★ 紀州漆器とは ★

紀州漆器(きしゅうしっき)は、和歌山県海南市黒江地区を中心に生産されている漆器で、黒江塗とも言われていています。その起源は、室町〜戦国時代に近江系の木地師集団が定着し、紀州桧を木地に木の椀を製造したのが始まりとされています。

これに加えて、現在の那賀郡岩出町にある根来寺(ねごろじ)で、僧侶達が寺用の膳・椀・盆・厨子などの什器を自ら作ったのも紀州漆器の起源の一つとされていますが、定かではありません。

紀州漆器は、江戸時代の初期には、渋地椀を中心とする漆器の産地として知られており、江戸時代中期頃は、紀州藩の保護のもとに相当盛大なものとなりました。文政九年(1826)、小川屋長兵衛なる工人が堅地板物の製作に成功し、安政時代には蒔絵による加飾がなされるようになりました。

廃藩置県で紀州藩の保護を失い、衰退しかけていた明治3年に、木村友重(南友重)が、漆職人を束ねて、貿易を開始したことにより、活気を取り戻し、明治12年には、沈金の技術を導入、明治31年には、京都より、蒔絵師を招いて、蒔絵の改良を行っています。

その後、天道塗、錦光塗、シルク塗などの変り塗が考案され、戦後からは他産地より早く化学塗料のラッカーを利用したプラスチック容器を開発するなど進取的、革新的な路線で成功を収めていました。

しかし、会津塗と、同様に、廉価な漆器を大量生産したことから、黒江漆器自体の評価を下げることになり、昨今では、昔の工法に回帰して、伝統的な漆器も多く作られるようになっています。

昭和53年、通商産業省より「伝統工芸品」として「紀州漆器」が指定されており、従事企業数154社 (平成24年3月末)、年間約46億円を売り上げる、和歌山県を代表する伝統産業として益々の発展を期しています。

                                               (記 : 2014年7月26日)

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