豊かになった日本だが、残しておきたい記憶がある! <<<戦後の記憶・情報サイト>>>
第二次世界大戦後、多くの家を失くした人たちは、川べりへバラックのような家を建てて、雨露を凌いでいました。 日本国中の大都市では、ほとんどの地域でみられた戦後のスラムですが、今では、面影を残しているものはなくなりました。 私が、高校生の頃には、私の故郷の広島でも、原爆スラムと言われている地域が残っており、日本が貧しかった時代は、ほんの35年前くらいまで続いていたことに気付かされます。 下で示す赤線で囲まれた地域が、広島市で、最後まで残っていた原爆スラム地域です。町の真ん中に位置していることにびっくりされる方も多いでしょう。 原爆スラム位置図 私は、広島城の北の基町高校へ通っていましたので、写真を見て、時代がよくわかりますが、この写真は、昭和50年代前半のものと思います。 広島市は、「水の都 」と言われるくらい、川の多い町で、昔は、7本の川(今は、6本)が流れていました。そのほとんどに、スラム街が形成され、次第に立ち退かされて、この基町地区が、最後のスラム街となっていました。 原爆スラム(昭和47年撮影) ほとんどの川べりには、このような住宅が立ち並んでいました。この写真の後部には、基町高層市営住宅の建設が始まっていますので、この写真は、昭和48年(1973年)頃のものだと思います。 私が知っている限りでは、熊本市でも、同様の光景が、同時期に見られましたし、ほとんどの川を有する大都市では、このような光景があったということだと思います。 さて、上記の原爆スラム地域ですが、スラム地域の北側に、低層の市営住宅が建てられているのがわかります。この地域も、同様のスラム街でしたが、広島市が先駆けて、市営住宅を建設し、スラムに住んでいる人たちに、市営住宅に移るように指導していました。 下の写真は、原爆スラムの内部の様子です。私は、親から、絶対にこの地域には入ってはいけないと言われていました。(笑) 原爆スラム内部(昭和45年撮影) このように住宅が密集していますので、火事が起きるとすぐに燃え広がりました。しかも・・・・・・広島市としては、何とかここに住んでいる人に立ち退いてもらいたかったので、真偽の程は、わかりませんが、消防は、15分遅れて出動するようにと言われていたと聞いています。 私が、高校生の時代にも、何度か火事があり、そのたびに、原爆スラムは、小さくなっていきました。 炎上中の原爆スラム(昭和42年撮影) 今では、このような川べりのスラムも、日本国内では、見られなくなりましたが、日本でも、ついこの間まであった光景だということを認識すべきだと私は、思っています。 発展途上国で、こういった光景を見ると、「可哀そう」とか、「何とかしてあげたい」などど発言する日本人もおられますが、日本も辿ってきた道であり、ほんの少し、時間軸が遅れているに過ぎないということなのです。 「残しておきたい昔の姿」の1ページ目を、「原爆スラム」としましたが、日本人は、自分の都合の悪いことは、すぐに忘れようとする傾向がありますので、忘れることのないように、書き留めておくことにしました。 1975年頃の原爆スラム 原爆スラム跡地の状況(2008年) (現中央公園) 注 : スラムとは、「スラム (Slum) は、都市部で極貧層が居住する過密化した地区のことであり、都市の他の 地区が受けられる公共サービスが受けられないなど荒廃状態にある状況を指す。」です。 (記 : 2011年1月22日) 追記 : 昭和47年頃の基町地区の航空写真 昭和47年頃の広島市基町地区の航空写真を見つけました。ここには、三篠橋から基町低層市営住宅の側にも、川沿いに、原爆スラムが続いていることがわかります。ただ、この部分の立ち退きは、結構、早く進んだと記憶しており、上記の昭和50年頃の航空写真では、きれいになっています。 昭和47年頃の基町地区(三篠橋付近より) (追記 : 2011年2月9日)
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