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広島市・丹那の船上生活者

船上生活者と呼ばれている人たちがいることをご存知の方もおられると思います。

住まいを、舟とし、生活を船上でしている人たちで、戦後、港や、河口で、多くの船上生活者を見ることが出来ましたが、高度経済成長期に入った1960年代後半から、転職や舟の老朽化で、急激に減り、今では、日本では、ほとんど見ることが出来なくなっています。

我が故郷・広島においても、昭和の40年代前半頃には、まだ存在しており、私も、広島市丹那(たんな)地区で、その光景を見ています。その光景がないものか?と、ネットで探したのですが、見つからず、下の写真は、横浜港で撮られたものですが、私の記憶では、同様の船上生活者の溜まりが、丹那にあり、何隻もの漁船の中で、この写真のような生活をしている方々がおられました。

 船上生活を営む人たち

 丹那遠景 (昭和41年撮影)

丹那の船上生活者は、漁業で生計を立てている人たちで、広島湾で取れる小鰯を、リヤカーに乗せて、行商をしていました。我が家は、近かったこともあり、しょっちゅう行商の方たちが、小鰯を売りに来ていましたが、小鰯にイイダコが混じることがあり、それが楽しみだったことを覚えています。(笑)

下の写真のようなリヤカー で押して行商をされ、木箱に小鰯がいっぱいに入っており、どんぶり1杯、いくらというような感じで売られていたと思います。なくなるまで売って、なくなったらその日の商売は終了ということなのだと思います。発泡スチロールの箱が出てくるのが、1960年頃だと思うので、それまでは、木箱にブリキで内貼りしたもので、行商されていたのだと思いますが、一般家庭での発泡スチロールの箱と、電気冷蔵庫の発達により、魚売りの行商は減っていったと思われます。












ナンマンエーの女性
早朝、氷を詰めた木箱をリヤカーに乗せ、小イワシを積んでやってくる。江波や草津方面から中心部へ。「ナンマンエー」と声を掛けながら町内を回る。(昭和15年、広島市天神町で撮影)
                     (「ヒロシマ新聞」より引用)




上の航空写真は、1947年に米軍によって撮影されたものですが、船上生活者の舟が映し出されています。私の家も、近くでしたので、丹那駅周辺に見られる、れんこん畑が、懐かしく思い出されます。黄金山にも、しょっちゅう登っていました。

その後、この地区の南側は、大規模な埋め立てが行われ、東洋工業(現マツダ)の工場等が建設されています。そして、時を同じくして、船上生活者も、高度経済成長期を迎え、転職して、丘へ上がったのだと思われます。
                                                (記 : 2011年2月5日)

追記 : 「ナンマンエー」の由来

上記、小イワシ売りの人たちの、「ナンマンエー」の由来を調べてみると、下記の説が有力です。

『歴史を辿れば,江戸時代から続いているもので、小イワシを、鷹の餌として売り歩いていた物でした。だから今も「生餌」が、なまって『ナンマンエー』と呼ばれています。』

しかも、広島、最後の「ナンマンエー」のおばちゃんの民谷由紀子さん、昭和15年生まれの71歳が、未だに、小イワシを、提供すべくがんばっておられるそうです。(2010年6月現在)

 民也由紀子さん

                               (参照 : イワシのおばちゃん最後のひとり

別の説は、中国新聞のWebサイトから、

なま物」がなまった「なんまんえ―」の売り声を響かせた女性は、一九一〇(明治四十三)年、大河で約二百五十人という記録がある。江戸時代の史料に「なまにて近市にひさぐも少なからず」とある。』








「おいしい言うてもらうんが一番」と小イワシを割く松田さん=手前=と中尾さん              (広島市南区丹那町)


また、私が、丹那から「ナンマンエー」の行商が出ていたというのは、

『線路の西側は沼になっていて、丹那港 で水揚げされた小イワシをここで洗ったおばちゃんたちが「ナンマンエー、ナンマンエー」と言って売り歩き、大変風情があった。』

という、「旧国鉄宇品線の跡」の記述からも伺えます。
                                              (追記 : 2011年2月8日)

追記 2: ナンマンエーの由来

ナンマンエーの別の由来の記事を発見しました。(「広島原爆戦災誌」、117ページ参照)

『市の南東、黄金山の南側のふもと、広島湾に面して西寄りに位置している丹那・楠那・日宇那などには古い漁業集落があり、山の西側の大河、東側の本浦は「すでにデルタの中に閉じ込められてしまったが、ともに船だまりがあって機能を失ってはいない(新修広島市史)。」ところである。早朝、まだうす暗いころから、新鮮な魚貝を市中に売りに出て、露地から露地へ「ナンマンエー」と呼び歩く声は、むかしからのなつかしい風物詩であった。「ナンマンエー」は、「生魚よ」の転訛だといわれている。』

うんんんん・・・・・・・「生餌」説、「生もの」説、「生魚よ」説、いずれが正しいのかは、最終的には、わからないのでしょうが、いつの間にか、「ナンマンエー」が定着していたということでしょうね。
                                            (追記 : 2011年2月24日)

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