豊かになった日本だが、残しておきたい記憶がある!                                       <<<戦後の記憶・情報サイト>>>

トップへ  当サイトでは、筆者が、時代と共に消えていった忘れてはいけない記憶を、筆者の記憶の元に、ネットの中より探し出して、昔の姿その解説、ご紹介しています。今では、見られなくなっている昔の姿を、お楽しみください。 

急行「安芸」号

かつて、新幹線が出来るまでは、広島から東京へ行くには、急行「安芸」号が一般的でした。

私の父親も、結婚する前には、東京で暮らしていたらしいですし、結婚してからも、何度か、東京へ行っていますが、すべて急行「安芸」で往復しています。

その急行「安芸」ですが、何故か?呉線経由になっています。その理由は、「軍港、呉からの乗降客が見込めたから」でしょうか?

1950(昭和25)年に、呉線経由で東京〜広島間を運転していた急行に、「安芸」の名称が付きました。この時点では、荷物車と2等寝台を1両ずつ連結した以外すべて座席車という編成の客車列車で、乗客も多かったようで、私の父は、座席に座れないことが多かったので、携帯できるいすを愛用していたそうで、後に、その携帯用のいすを、私が魚釣りが好きなので、使うようにともらいました。

私が、生まれた頃の1956年の時刻表では、片道18時間を掛けて、東京と広島を往復していました。


                   C59型蒸気機関車が牽引する急行「安芸」号


                C62型蒸気機関車が牽引する「安芸」



その後、寝台車の比率が徐々に上がり、さらに食堂車も連結してグレードアップが進みました。そして、68(昭和43)年以降は荷物車が廃止され、10系軽量客車の2・3等寝台車(69年からはA・B寝台車)と食堂車という、全車が幅広車体で揃った美しい編成になりました。

1962年(昭和37年)、山陽本線は、広島まで電化が進み、電車急行「宮島」が東京まで運転されました。実は、山陽本線の電化は、「安芸」にとっても、その存在感を示す上で、大きな分岐点になりました。

山陽本線の瀬野ー八本松間は、急勾配の区間があり、補助の機関車が押して登っていたという事情です。それに引き替え、呉線は、海岸沿いを走っていますので、勾配が少なく、1両の機関車で引くことが出来たという事情があり、私は、そこに、広島ー東京間を1本で繋ぐ列車を走らせるのに、呉線を経由させた理由の1つがあるように思います。

1970年(昭和45年)、呉線の全線電化で、寝台急行「安芸」は、終焉の時を迎えました。10月1日まで、大型蒸気機関車C62C59型が牽引していた「安芸」の最後でした。

急行「安芸」号との思い出ということになると、やはり、SLが牽引していた時代ということになると思います。中々、一般人が、東京まで行くことがなかった時代ですので、「上京」という言葉が、「帰ってこれない」といった響きを持っていた時代ですね。


               急行「安芸」号のSL牽引終了記念列車 (1970年)

SL牽引が終了した後、大阪〜呉間の電車急行安芸として、再出発。1972年3月15日の山陽新幹線岡山開業時には、運転区間が、岡山〜呉、広島間となり、新幹線連絡急行となりました。



その後、1975年3月10日の新幹線博多開業により、新大阪〜下関間、呉線経由の寝台特急安芸に格上げされ、急行としては廃止されました。その寝台特急安芸も乗客は伸びず、新設からわずか3年半の1978年9月末に廃止されてしまい、「安芸」の名前が、な完全に消滅しました。



 寝台特急安芸

さすがに、人気急行「安芸」ですから、ネット上にも多くの写真が残っています。私の時代は、すでに、「あさかぜ」になっていましたが、広島のご年配の方なら、急行「安芸」との思い出を持つ方がたくさんおられると思います。幾つかの懐かしい写真をアップしておきましょう。







                                                (記 : 2011年2月7日)

Copyright (C) ともさんの「残しておきたい昔の姿」  All Rights Reserved 
















inserted by FC2 system