豊かになった日本だが、残しておきたい記憶がある!                                       <<<戦後の記憶・情報サイト>>>

トップへ  当サイトでは、筆者が、時代と共に消えていった忘れてはいけない記憶を、筆者の記憶の元に、ネットの中より探し出して、昔の姿その解説、ご紹介しています。今では、見られなくなっている昔の姿を、お楽しみください。 

広島市・広島城

広島城は、1589年(天正17年)毛利輝元が、山深い郡山から瀬戸内海に面した五カ浦に移転して、ここに築城した平城です。

関ヶ原の戦い後、毛利氏は、萩に移封され、1600年(慶長5年)、「賤ヶ岳の七本槍」の一人である福島正則が、49万8000石を領有し、城主となりましたが、1619年(元和5年)広島城の修築を理由に除封されます。後は、浅野氏が42万6500石で城主となり、そのまま幕末を迎えています。

太田川を外堀に用い、城下には水路を兼ねた堀割が整備され、中心部は、典型的な織豊系城郭で、二の丸は、本丸の出撃機能を専有した馬出しのお城となっていました。

浅野藩政時代の広島城は、内堀・中堀・外堀のある、約1キロメートル四方の広大な城でしたが、明治44年に外堀が埋められ、さらに原爆の瓦礫で中堀が埋められて現在の規模になりました。

広島市内の「八丁堀」、「薬研堀」などの地名は、堀があった名残りで、八丁堀は、約8丁(約880メートル)あった東側の外堀にちなんでいます。

日清戦争の際に、大本営が東京から広島へ移され、歩兵第十一連隊、陸軍幼年学校なども、城内に設置されていました。


         戦時中の広島城 (本丸に、大本営があった)

昭和6年(1931年)に、国宝に指定された天守閣は、1945年(昭和20年)まで残りましたが、原爆によって倒壊しました。

   
                         被爆前の広島城天守閣

 焼失以前の表御門<案内説明板より>

表御門は、天正期末(16世紀末)頃の建造と推定され、昭和20年の原爆被爆による焼失までの約350年間存続していました。

 倒壊後の広島城

 天守閣跡(昭和23年撮影)

昭和33年、広島城の天守閣は、広島復興大博覧会の時、鉄筋コンクリート造で、外観が復元されました。内部は、広島城資料館なっています。尚、最上階層は、木造で復元されています。

 昭和33年に復元された天守閣

私が、記憶している広島城は、もちろん、復元後の広島城ですが、お堀の中の水が、どんどん減っていって、涸れかけていた記憶があります。その時には、お堀を防水していないので、地下水を汲み上げられて、水がなくなっていると、聞いていましたが、実は、お堀が埋め立てで、閉鎖性水域となっていた為で、平成5年に、本川(旧太田川)から、導水する工事が完成し、現在のような、水を満杯に張ったお堀と天守閣となっています。


                        現在の広島城

この導水工事が、完成する以前のお堀は、戦前のお堀のように、(ハス)が育っていたと思うのですが、それを証明する画像を発見できません。うんんん・・・・・・確かに、蓮だったような気がするのですが・・・・・

 戦前の内堀は、蓮で覆い尽くされています。

また、平成元年の広島城築城四百年を記念して、表御門の復元に着手し、平成3年に完成 しています。


                      復元された表御門

尚、戦前の天守閣と戦後の天守閣の違いは、戦後のものは、最上階が展望場になっているため、落下防止用の金網が見られます。同じ、白黒写真でも、そこを見れば、どちらかのものか?わかりますよ。(笑)

ここで、面白い、第2代目?の天守閣の話です。

昭和26年 、広島国体に合わせて、そのシンボルとして仮設天守閣が作られたそうです。台風にも見事に耐えた仮設天守閣は、イベント終了後、解体されています。これが、原爆で倒壊した天守閣の2代目になったのかな?(笑)

 

アトラクションとして、スイッチバックレールウェイという乗り物があったということです。
                                               (記 : 2011年2月10日)

Copyright (C) ともさんの「残しておきたい昔の姿」  All Rights Reserved 
















inserted by FC2 system