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広島市安佐南区の東部を、国道54号に沿うように一本の水路が流れています。この水路は、古くは「定用水(じょうようすい)」と呼ばれましたが、戦後は取水口の地名をとって、もっぱら「八木用水」と呼ばれています。 私の実家の目の前を流れていた、八木用水には、鮒や蛭がいて、子供の頃には、よく遊んだものです。 しかし、周辺地域は、都市化が進んだことで急激に農地が減少し、水量も減って、サリガニがいるくらいで、蛙の声も聞けなくなりましたし、生物がいなくなった用水路が、忘れ去られてしまうのは、心苦しいので、忘れ去られる前に、わかる範囲でまとめておきたいと思います。 八木用水は、今から240年前、祇園の郡中御用聞き大工「桑原卯之助」が、明和5年(1768年)、八木村の十歩一から、打越村の4里(16km)もの大工事を、わずか25日間で完成させた農業用水路です。 南下安村(現在の安佐南区祇園)の大工で、広島藩の土木工事を請け負う仕事をしていた卯之助は、何年にもわたる現地調査と、入念な測量によって詳細な仕様見積書を作成し、八木用水の工事を藩へ願い出ました。藩の許可がおりると卯之助は、明和5年4月4日から工事にかかり、わずか25日後の4月29日には通水式を行い、八木用水を完成させました。 このお陰で八木、緑井、中須、古市、西原、長束、新庄、楠木、打越の九か村は水不足に苦しむことが無くなり、米の出来高も急激に増えました。 江戸時代の取水口は「十歩一」という場所でしたが、大正8年の大洪水により、堰が流されたため、上流の「鳴(なる)」に移されました。 そこで、戦後間もない頃の八木用水は、どんなルートだったのか?私なりに、調べた結果が、下のようなルートになりますが、大まかなルートだということをご理解お願いいたします。 昭和26年(1951年)には、用水路のコンクリート化に着工していますし、翌年の昭和27年には、八木隧道(やぎずいどう)が完成、昭和30年(1955年)には、安川サイフォン(後述)が完成、昭和37年(1962年)には、太田川発電所が完成して、昭和40年(1966年)には、太田川放水路が完成していますので、昭和40年代前半に、現在の八木用水の形になったものと思われます。 私の家族が、祇園に移り住んだ昭和40年(1965年)には、まだ、用水路のコンクリートの工事をしている最中で、1〜2年も経たないうちに、工事が終ったと記憶しています。 現在の八木用水は、2区間に分かれています。 @ 鳴集落〜太田川発電所 広島市安佐南区八木町鳴(ナル)集落のはずれに、八木用水路の第二樋門(制水門)があり、太田川発電所の完成までは、ここから取水していました。しかしながら、太田川発電所の完成で、太田川の水位が下って取水できなくなり、 今では水中ポンプで川水を汲み上げています。(電気代は、中国電力が払っている模様) 2012年10月に訪れましたが、「鳴の取水口」付近は、近年、護岸工事が行われていて、新しい土手ができていて、その近くには、りっぱな案内板がありました。 第二樋門 ポンプで汲み上げられた太田川の水が、勢い良く、八木用水へ流されていました。 取水口跡 ポンプで、太田川の水を汲み上げているポイント ここから、太田川発電所までの約4kmは、旧八木用水を通っていますが、太田川発電所前地点に制水門があり、この制水門は常時閉められていて、用水は、太田川に戻されています。 ここから、左方向へ流れて、太田川に戻る 太田川への迂回水路 A 太田川発電所〜長束 現在は、この区間のことを、八木用水と言っていることが多いようです。 ここからの区間は、太田川発電所から、水の全量が供給されています。 太田川発電所 八木用水の水は、発電用のパイプではなく、下のコンクリートの水路を流れているような感じでした。 現在の八木用水の起点(ここから、国道を横切る地点まで、しばらくは、地下水路を通る。) 太田川発電所にある八木用水の説明板 太田川発電所から供給された農業水は、しばらく地下水路を通って、細野集落へ流されています。 発電所からの出口 この画像は、「広島ー陽の当たらない所」からのものです。とても詳しく解説されていますので、ご参照ください。 細野集落へ流れた農業用水は、八木峠に向かい、城山にぶつかりますが、昭和27年(1952年)に、用水を直線的に通す導水(八木隧道)が完成し、太田川沿いを迂回していた流れていた用水路が改善されています。 八木隧道入り口 八木隧道出口 (私も撮影するも、雑草で、良く見えない) 八木隧道は、長さ、406mで、直径120cmの鉄筋コンクリート製の管で作られ、平成10年(1998年)に改修工事が終っています。 八木用水は、そのあと、緑井から中須に入り、安川の堤防のそばまで来たところで、流れがとぎれてしまいます。安川に流入しているのか?と思いつつ対岸に行ってみると、堤防の下から新しい水路が流れ出ているのに気づきます。 安川にぶつかった八木用水は、7メートルほど垂直に下り、そのまま川床の下をくぐると安川の南側でふたたび垂直に上昇して地上に現れるというわけです。 このように、密閉した管を通して、障害物を垂直方向に迂回させる方式を「サイフォン」と呼び、このサイフォンがつくられたのは、昭和25〜30年に安川の流路が付け替えられた時になります。(完成は、昭和30年) それ以前の安川は、このあたりで南に大きく向きを変え、八木用水と交差することなく長束方面へ流れていました。私が子供の頃には、すでに、流路を変えた後の、流れのない安川が残っていましたが、今は、ほとんどが、暗渠になっているようです。 サイフォン入口 サイフォン出口 こうして、安川を潜り抜けた八木用水は、私の実家のある西原へ向かい、この地域の農業用水不足を解消して、最終出口に向かいます。(八木用水の直接の使用目的は、西原村の灌漑用水路でした。) 西原を抜けて、長束(ながつか)まで、流れてきた八木用水は、太田川に注ぐルートと、新安川に流れるルートに分かれ、最終的には、太田川放水路に流れていくことになります。 東側終点 西側終点(新安川へ流れているが、撮影時には、東側のみが使用されていた) 子供の頃、自宅の前を流れる八木用水の豊富な水量をみて、どこから流れてきて、どこへ流れていくんだろう?と不思議に思っていましたが、こうして調べてみて、納得しました。 残念ながら、八木用水の工事中の写真(改修工事を含む)や、昭和の昔の画像を発見することが出来ませんでした。こんなことなら、自分で撮っておくべきでしたね。(笑) 上記の八木用水に関連する施設の位置関係は、下記の図に示す通りになります。私の地元ですので、一度各施設の見学に行ってみたいと思っています。 尚、祇園から、打越までの、戦後間もない頃のルートは、下記の資料を参考にさせていただきました。 (記 : 2012年9月22日)
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