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広島市安佐南区に、古川(ふるかわ)という川が流れています。 古川ですから、もちろん、古い川という意味ですよね。(笑) そうなんです。古川は、元々は、太田川の本流だった川です。慶長12年(1607)年の大洪水により、現在の本流が現れたとされ、人々は、「古川」に対して、昭和の初めまで、新たな本流を、「新川」と呼んだそうです。 この航空写真を見れば、一目瞭然ですが、元々は、太田川の本流で、旧祇園町西原には、「旧土手」といって、太田川の洪水を防止する堤防が、古川沿いに築かれていました。 現在では、この「旧土手」を利用して、祇園新道(現国道54号線)が作られ、アストラムライン(新交通システム)も、旧土手沿いに建設されました。 こちらは、1967年(昭和42年)の航空写真です。昭和25〜30年に渡って、安川の流路が付け替えられて(昭和30年完成)、安川が、古川に注ぐようになっています。このため、昭和30年以降、古川は、安川の合流路として、重要になっています。 本流から離れた古川は、安川の流路、太田川の洪水流の分流路的役割を果たしてきましたが、上流にダム等が整備されてきて、洪水流の分流の役割が少なくなり、昭和41年から44年にかけて、八木の分流口の締切が実施されました。 こちらは、2000年(平成12年)の航空写真ですが、「古川せせらぎ河川公園」部分(第二古川)と、もう1つの分流(第一古川)は、本流から閉め切られています。 八木の取水場 これにより、安川の合流地点より、上流の部分が、河川としての役割が少なくなり、1990年(平成2年)に、ラブリバー制度の認定(対象区間約1.7km)を受けて、親水(しんすい)公園という、水や川に触れることで、水や川に対する親しみを深めることを目的とする、「古川せせらぎ河川公園」として、整備されています。 流水は、高瀬堰(たかせぜき)(後述)より水を取り、水量が、水深30cm程度になるように調整して、流されています。 また、付け替え前の安川下流部分は、完全に埋め立てられて、1967年の航空写真にはあった安川が、この航空写真からは、姿を消し、道路になったり、暗渠にして、上部を公園として使われています。 こうして、戦後の復興期の移り行く河川の状況を眺めていると、地上からはわからない発見が出来て、楽しいものですね。 河川としての役目を終えた古川上流部分は、「古川せせらぎ河川公園」(通称:川内(かわうち)第一公園)として、土手沿いに、桜の木が植えられ、「桜」の名所となっています。また、近くには、梅林公園(ばいりんこうえん)もあって、こちらは、「梅」の名所として、春は、花見に絶好の場所となっています。 古川せせらぎ河川公園 現在は、第一古川においても、多自然型川づくりを行われているようで、ホタルの飼育にも挑戦しているようです。 第一古川の様子 現代では、広島のベッドタウンになっている川内(かわうち)地区(文字通り、川の内側です。)ですが、古川と太田川に挟まれた、中州のようなところでしたので、昔は、大変不便なところで、洪水の危険とも隣り合わせでした。しかし、今では、上流のダムをはじめとする治水工事のお陰で、優良住宅地に変身しています。 私が、子供の頃の昭和40年頃には、古川沿いの林には、カブトムシやカミキリムシがいましたし、ハヤ釣り、鮒、鯉釣りもしていました。豊かな川で、水は濁っていましたが、当時、清流が流れていた太田川の本流とは違った、趣のある川でした。 護岸が整備されて、面影が全くなくなっている古川(橋の先が、太田川との合流点) 上流のダムや高瀬堰のせいで、太田川の本流も流量が少なくなってしまって、本来、この古川がある区分は、中流域であったのですが、下流域を思わせる流量しかなくなっています。魚も激減し、魚釣りをしている子供も見かけませんし、昔の風情がなくなっているのは、残念ですね。 ★ 高瀬堰 ★ 高瀬堰(たかせぜき)は、安佐北区高陽町牧と、八木町八木に跨る、高さ5.5mの可動堰で、1975年に完成し、6門のゲートを開閉する事で、太田川の水量調節を行っています。また、太田川から切り離した、旧流路である古川の正常な河川流量維持を目的も持っています。 高瀬堰が建設される以前、この地点には江戸時代に建設された、灌漑用の固定堰である高瀬井堰(たかせ-いぜき)が建設されていました。しかし、洪水時に、洪水流下能力の阻害になるという理由で、調整機能のある堰が、1970年から計画され、1975年に完成しています。管理用道路は、「高瀬大橋」として、使われています。 (記 : 2012年10月11日)
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