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広島市・100メーター道路

広島市に、通称「100メーター道路」という、幅員100メートルの道路があります。

現在では、1951年(昭和26年)に、公募で選ばれた「平和大通り」という名前になっていますが、古くからの広島人の間では、「100メーター道路」が定着しています。

この道路は、1945年(昭和20年)に閣議決定された、「戦災復興計画基本方針」のなかで計画された道路で、全国で、24本の100メートル道路が計画されましたが、実現したのは、名古屋市の2本と、広島市の1本だけでした。

100メーター道路は、広島市の鶴見橋から、新己斐橋までの約4kmを、東西に渡って、ほぼ一直線に横断する道路で、緑地帯と、防火帯を兼ねたものです。



着工はと言いますと、1943年(昭和18年)の「都市疎開要項」によって、軍事施設を守るための防火帯を作るために、民家の立ち退き等を計画し、1944年(昭和19年)末から、この地域の立ち退きが、実施されており、これが、100メーター道路の起源になっています。尚、この立ち退き作業は、生徒や住民の動員による作業でしたが、原爆により、多くの人が亡くなっています。


  被曝直前の様子ー白い部分が作業中の部分(arch-hiroshimaより)

1949年(昭和24年)に、広島平和記念都市建設法により、「平和記念道路」と位置づけられました。しかし、その後もしばらくは、整地は進んでも、舗装工事には至っていませんでした。



 鶴見橋付近の様子


                昭和30年頃の平和大通りの建設風景

本格的な舗装工事に入ったのは、1957年(昭和32年)からで、1958年からは、緑地帯の「供木運動」が展開され、市民および市周辺の4郡23町民の協力で、昭和32年(1957年)に高木約1,200本、昭和33年(1958年)には高木約1,300本、それに低木多数の供木がよせられました。




                 昭和34年頃の原爆資料館付近の様子

100メーター道路の完成は、東の鶴見橋を起点に、西の観音・福島地区を抜け、己斐まで全通した、1965年(昭和40年)5月とされていますが、この時は、1966年撮影の航空写真の通り、鶴見橋は、木造の歩道橋のままとなっています。



その後、鶴見橋は、1990年(平成2年)に、現在のコンクリート道路橋に架け替えられて、全線車両交通道路になっています。



また、1990年の鶴見橋の完成後、1993年には、比治山トンネル開通で南区段原地区とも結ばれ、広島市を東西に貫通する道路になっています。


          平和記念公園付近の平和大通りー高層ビルは、1990年代に増えた

幅員が広い割には、側道が橋で繋がっていないため、その機能を持て余している平和大通りですが、1975年には、広島カープの初のリーグ優勝での、優勝記念パレードを、この平和大通りで行い、沿道に40万人のファンが集まりました。

また、1977年以降は、この通りを主要な会場とする、市民の祭典「フラワーフェスティバル」が開催されるようになり、1996年からは、全国都道府県対抗男子駅伝競走大会のスタート&ゴール地点が、平和公園として、駅伝ランナーたちが、この通りを走りぬけています。


           平和大通りを閉鎖して行われるフラワーフェスティバルの様子

広島市は、平成14年(2002年)10月に、平和大通りのリニューアルの理念及び方向性などを定めた平和大通りリニューアル事業の基本方針を策定し、公募により選定された市民委員で構成する「平和大通りを考える会」から市民計画案の提案を受けて、随時、緑地帯の再整備を行っており、2014年度の完成を目指して、平和大橋歩道橋の整備もされるようです。
                                               (記 : 2012年10月15日)

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