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意外な、お宝があるものです。画像と共に、うんちくも、お楽しみください。 

御用窯解説(北海道〜関東) 

柳営(徳川将軍家・幕府) 〔武蔵国-東京〕

<江戸城>
●柳営御庭焼(千代田御庭焼)
元禄年代、五代将軍綱吉が、江戸城内吹上苑に築窯、瀬戸の陶工を招き、手慰みに陶器を焼成したが、
やがて中止。文政期、十一代家斉のときに再興、青華磁器を焼成した。

●番町御薬園焼〔江戸麹町番町〕
十三代将軍家定の嘉永・安政期に幕府の御薬園に、雙木清吉が、上絵付用の錦窯(きんよう)を築いた。
尾張・美濃両国より素窯を取り寄せて、陶画工に絵付けさせた。

●御茶碗師
幕府は諸藩のように特別に陶窯をもつことはしなかったが、時に応じて将軍家の数奇屋用陶器製作車として、
御用茶碗師なる者を選んだ。その制度がいつごろから始まったのかは定かでないが、寛永四年(1627)版
『武鑑』に、

御茶盌師 浅草門跡前 高原平兵衛

明治六年(1769)版に、

御茶盌師 浅草門跡前 高原平兵衛 西こんや丁 茶盌師 瀬戸助

等と見える。
御茶碗師としての初出である平兵衛は、肥後国山本郡高原郷で陶窯に従事したのちに、肥前国三川内窯の
陶工となり、のちに摂津国大坂天満で没した高原源五郎七の弟子と伝えられ、五郎七の没後、高原姓を
名乗った、とある。
 平兵衛を頂点とする系統の御茶碗には、以後の『武艦』によると、文化四年(1807)までは平兵衛と名乗り、
天保七年(1836)に次郎右衛門と改名、同十五年藤兵衛、嘉永五年(1852)次郎右衛門、同七年藤兵衛、
安政六年(1859)次郎右衛門、万延元年(1860)藤兵衛と記入され、次郎右衛門と藤兵衛との名称を交互に
継承して、幕府に跡目相続をもって仕えていた。平兵衛の名跡は天保七年まで続く。
 『工芸鏡』によると、すでに同十五年以前に藤兵衛の名を見ることができる。平兵衛と同様に肥後国高原郷の
出身で、慶長末期に摂津国能勢郡の山間に高原焼創始者として開窯し、主に茶器類を製陶していたところ、
大和国小泉領主片桐貞昌(石州)の推挙によって、四代家綱に御茶碗師として使えるために江戸に赴き、
浅草本願寺(引用文中の門跡と同じ)前に屋敷を賜り、邸内に窯を築き、江戸高原焼(別称、浅草焼の名は
この時期に始まる)を興したとある。
 また一説に、高原焼は、慶長期に高原市左衛門なる者が攝津国大坂で創始したもので、その二代平三郎は、
承応期に江戸へ下り、浅草で製陶に従事していたが、二年後帰坂し、代わりに市左衛門が家綱に招請されて
江戸に赴き、御茶碗師を勤めたとある。
 以上、家光のときに平兵衛・藤兵衛・市左衛門の三者の名を見るが、この三者は同一人物で、はないかとも
見られる。五郎七は、わが国の時期の創始者であるともいわれているものの、その生没年代は定かでなく、
また平兵衛以下三者の実情も明確さを欠き、不可解な部分が多い。
まったく偶然に、異なる三人の人物が、家綱の命によって同時期に江戸へ赴き、御茶碗師の任務を仰せ
付かったものであろうか。
 いずれにしても、高原家は幕末まで御茶碗師として従事したかた、強いていうならば、江戸高原焼を、
将軍御用窯として扱うこともできるのではあるまいか。
 なお、片桐貞昌に推挙された藤兵衛は、幕府本丸用の抹茶茶碗を製し、御本・判事・呉器等の朝鮮風を模し、
のちに、輪形抹茶茶碗と称されたものを献上している。
 明和六年(1769)版『武艦』に初めて名を見る瀬戸助は、尾張国瀬戸村の陶工で、伊予国松山藩の初代
久松松平定行の隠居後に招かれて御庭焼に従事し、寛文八年(1669)定行の没後、江戸に赴き、鍛冶橋の
紺屋町に築窯、家綱の御茶碗師となった。
 瀬戸助にも異説があり、『観古国説』によると、万治期(家綱)に越前国福井城下在住の富豪山田家に
招かれて陶製していたが、

   …福井藩の旧臣酒井外記ノ下邸アリ 玆ニテ陶器ヲ作ル窑アリ、今ニ頽レ残レリ 此後徳川氏ノ数茶碗ヲ
作ル 其形甚宜シケレバ 世上ニ瀬戸助ノ中服小服ト称セリ、瀬戸助ノ印ヲ押ス、遂ニ徳川氏ノ数奇屋掛リノ
茶碗師ト成テ 代々東京鍛冶橋外面西紺屋ニ住ス

とあり、伊予国から赴いた瀬戸助と同一人物であるか否かは未詳である。天保四年(1833)版『武艦』には、
 
   御器御用 西こんや町 茶盌師瀬戸助

とある。寛文末期より代々その子孫が将軍家数寄屋橋掛御茶碗師御用を勤め、その作品には「瀬戸助」の
印を用いたとされる。
 近江国甲賀郡信楽で土器を焼成した、雲林院宮の末裔雲林院太郎左衛門尉要蔵康光七代文造は、
正保二年(1645)、信楽より京都粟田庄東分木町へ移窯、将軍家光の御用を仰せ付かったのを契機に、
八代九左衛門より十六代文蔵の九代にわたり幕末まで将軍家の命による点茶器を焼成、毎年茶器類を
調進することを定例とした。将軍家綱のときの九代安兵衛は、大和国生駒山宝山寺開祖堪海律師により
「宝山」号を拝領、以来、代々その作品にその号を押印する。
 尾張国品野窯基村本家四代景重の三男加藤新兵衛景在は、寛永元年(1624)上洛、粟田口三条通蹴上
上今道町に居して、三文字屋九右衛門と改名、同地華頂畑に築窯、これを京焼の元祖としている。茶入・鉢・
香炉等を焼成した折り、将軍家光に招請され、御茶碗師を勤める。九代将軍家重の延享二年(1745)、その
子孫は窮乏して相続にも差し支えたので、公儀御茶道に拝領金を願い出て、一時は凌いだのもも、宝暦期に
至りますます困窮を加え、さらに御用品の出来栄えも悪く、御用を他家に譲らなければならない状態にまで
なった。
 宝暦六年(1756)三文字屋の跡を継いで粟田口参上通夷町の青蓮院御用を勤める鍵屋三代錦光山
喜兵衛と同東町の岩倉山吉兵衛が御茶碗師となった。
 錦光山は、洛東岡崎村辺の土をもって、御召京焼茶碗・同御好茶碗・黒絵御紋付御茶碗・御薬天目焼・
御召糸目茶碗・御鷹野茶碗(馬上杯・粟田口焼)等の各種を岩倉山とともに毎年献納する。錦光山四代・
五代も御用を勤めて、和蘭陀写・御室仁清写を製陶、献上する。
 十代将軍家治のとき、伊勢国桑名万古焼沼浪五左衛門(弄山)は、その妙技が家治の伝え聞くところとなり、
父が没した宝暦十三年(1763)前後に召されて、桑名より江戸小梅村別邸で、公儀の許可を得て開窯、
江戸万古と称した。作風は万古焼を模すのはもちろんのこと、

或ハ薩摩古宝器ニ類スル釉面ニ彩画ヲ施セル一種ノ陶器ヲ製シ(『府県陶器沿革陶工伝統誌」)

ともある。将軍家御成先御用および御数奇屋御用を仰せ付かり、家治自身たびたびその窯場に臨んだという。
 安永七年(1778)弄山の没後、長男義造は陶業を好まず、十一代家斉の天明期に廃窯。「万古」印を使用した。
 下総国海上郡布間村出身の井田吉六は九歳のとき、江戸へ出て、日本橋上槇町灰屋小林宗兵衛に雇仕し、
成人後、骨董を業とするかたわら、浅草御蔵前において陶器商を開き、のち将軍家に認められ、命によって
席焼を成した。
 さらに命によって安政期以後衰微をみた天領御用窯の肥後国亀山焼を再興するため、甥の乾也とともに
同地へ赴き、陶業に従事した。

<御壺師>
 幕府は、将軍秀忠の慶長期に、山城国宇治より毎年茶を取り寄せた。
 元和八年(1622)、命によって、近江国甲賀郡信楽村に、腰白・耳付の信楽焼茶壺を造らせ、ここに御壺師の
名の誕生をみた。これは信玄壺といわれ、御用茶壺としてその後も引き続いて御用命があった。

<天領御用窯>
●岐山焼〔美濃国稲葉郡金華山藤の洞〕
 織田信長の御庭焼で、優れたものに、楽焼ふうに白頽れの景色を見る作品がある。天明期、幕府は当地に
町奉行を設置、黒田六市郎の赤川洞良土発見により、楽焼を製し、小判型輪郭内に行書で「御山」と記した。
●根本窯〔美濃国可児郡小泉村〕
 天領御用窯とも称し、嘉永元年(1848)、尾張国東春日井郡高蔵寺村字木村の陶工小助が当地に移住して、
同所代官坂崎源兵衛の指揮下で、肥後国有田の手法をもって創業。
●箱館焼〔北海道箱館〕
 安政五年(1858)、尾張常滑の陶工本多柱次郎は幕府によって箱館に赴き、箱間の管理下で、箱館港
茂辺村に築窯、磁器を試み、染付の煎茶器を焼成したが、土石に恵まれず、三年後の文久元年(1861)に廃窯。

<長崎奉行支配下>
●高浜焼〔肥後国天草島〕
 長崎奉行は、六代将軍家宣の正徳二年(1712)、肥後国平戸藩の陶工藤七兵衛が幕領天草島において
磁器の原料を発見したのを機会に、御用窯を築き、別称、天草焼を焼成。肥前国佐賀領内の有田および
同国平戸領内三ッ岳の磁器製品との競争を試みるに至ったが、十代将軍家治の宝暦十三年(1763)、
有田で陶窯および赤絵の製陶制限が厳しく敷かれたため、当地の上田元作なる者に払い下げられて、
民窯化した。
 明和八年(1771)再び長崎奉行柘植大和守の奨励で、上田元作の陶窯場をもって、五島在住の和蘭陀人
とも交易する。
●亀山焼
 将軍家斉の文化元年(1804)、長崎奉行肥田豊後守は、伊良林郷の山手垣根山に、陶工大神甚兵衛をして
開窯させ、水甕類を焼成。同十一年、青華白磁を製する。さらに天保期、中国蘇州の土を用いて酒器・
小茶注類を焼成。開窯後まもなく、肥後国天草への事業拡張に失敗、大名領の事業に垂涎し、天領地に
陶製所を設けるが、思うに任せず、次第に衰えて廃した。
 天保五年(1834)ころ、長崎奉行柳生伊勢守は、領内三川内・木原・江水の三皿山役所を設置し、将軍家への
献上および大村藩内入用品のほかは、主として販路を長崎に求め、唐人相手の貿易も行うが、これも失敗に
終わる。
 将軍家茂の安政六年(1859)、長崎奉行岡部駿河守は、亀山陶器所を設置、江戸よりの属官小島喜左衛門を
主体として再興したが、上等品の販売禁止で、幕府への献上・諸家からの注文あるは奉行自家用とし、
下等品以下は中国大陸への輸出を始めとし、一般市場へ出されたが、経営不振で、文化元年(1804)開窯以来、
半世紀余で廃窯となった。安政期以後の製品は種々雑多で、素地は伊万里焼に類似、絵付には主として
津田南竹が当たる。上等品には角輪郭内に染付けで、「亀山」「亀山製」、中等品以下は楷書・行書で
「亀山製」印で、一般向きとした。

<弘前藩>〔陸奥国−青森県〕
●津軽焼〔悪戸(あくど)・扇田焼〕〔中津軽郡下湯口村〕
 領内での窯の設置は、二代主君津軽信牧が慶長末期以後、大坂の瓦師大塚利右衛門を招き、瓦焼成が
始まり。
 文化三年(1806)同村扇田の染屋石岡林兵衛が出羽国十三所村の陶工源七を招いて陶器窯を築き、
文化五年(1808)当主寧親に認められその庇護下に成業。主命により、茶器類を製し、同時に民謡雑器も
焼成した。
 備前風で、一般に火度が低いために製品に不用意なものが多い。
 当主信順の天保六年(1835)、松前の国産奨励に対抗し林兵衛門は主家より資金援助を確保、松前領
へも販路を広げた。

<盛岡藩>〔陸奥国−岩手県〕
●盛岡焼
 天保六年(1835)十月、用人志賀角太夫は家中の経費で唐津の陶工三人を招き、八幡山の陰地を買い上げ
瀬戸焼場と称して築窯し、日用雑器を焼成。将来家中の物産となることを望んだが、角太夫の不調法の
ために廃止となった。
 弘化二年(1845)、当主南部利剛は京都楽焼の陶工八十八名を召し抱え、中野村高崩に居宅を与え城中の
庭に築窯、御庭焼とした、利剛手造りの茶碗等の底には「心」の花押を押す。

<仙台藩>〔陸奥国−宮城県〕
●切込焼(切米焼)〔加美郡宮崎村切込〕
 主君伊達政宗が御用窯として築窯。最盛期は嘉永・安政期で当主慶邦の時代。青華白磁は、切込村清水平・
相ノ沢・ウド沢・戸沢・新山より採土、呉須・赤絵も同村作り道・矢ノ倉沢・湯川より採土、茶器類のほか、
茶碗・皿・徳利・火鉢等を作ったが、手法・釉色・模様は肥前系磁器に従う。
 一般的知名度は低く、東北地方では肥前系のものと誤認されるほど伊万里と酷似している。
 寛文期、江戸伊万里屋五郎兵衛が当主綱村の命で有田へ赴き、辻嘉右衛門所製の磁器の最良品を得て
伊達家へ納め、伊達家はこれは内裏・仙洞御所へ献上した。さらに佐賀の鍋島光茂に依頼して年々の
御料品を嘉右衛門に調進させた。これが「献上伊万里」の創始。当主重村は安永三年(1774)佐賀の鍋島藩を
経て進献した。
●堤焼(杉山焼)〔城下堤焼〕
 当主綱村の元禄初め、陶工上村万右衛門が築窯、楽焼の茶器を焼成した。国産陶器として奨励されたが、
万右衛門没後は一時衰退した。当主重村の宝暦期に遠江国の陶工菅原善右衛門が再興し、堅焼瓶類を
焼出した。
 また、当地に元禄期ごろ、堤人形と称する土焼人形が伝わる。綱村じゃ趣味家で諸芸に凝り、京都の陶工を
招き、台ノ原に杉山窯を築き、綱村が尊崇する玉手崎天神像を万右衛門に模索せしめたのが土偶の嚆矢と
され、当主吉村の宝永・正徳期に隆盛を極めた。
 当主重村の天明期に、飢饉があって一時廃絶をみたが、当主斉宗の文化初年、名工佐藤九平次によって
復興。常時、主君の庇護を受けたが、廃藩とともなって、衰微した。

<棚倉藩>〔陸奥国−福島県〕
●棚倉窯〔白川郡棚倉〕
 文化初年、主君小笠原長昌は石川郡箕輪村の陶工小針伝之助を招き、陶磁器窯を興した。
 長昌の同十四年、肥前国唐津への移封のとき中絶、安政期に主君松井松平康爵が向山関口八幡下に
再興したが、慶応ニ年(1866)、康英が武蔵国川越へ移封の際に廃窯となった。両期ともに主家の御用品を
製出した。

<相馬藩>〔陸奥国−福島県〕
●相馬駒焼〔中村〕
 慶安元年(1648)、主君相馬義胤の命で、田代源吾右衛門が京都御用窯の仁清に陶法を学び、七年後、
清治右衛門と改名して中村城下に開窯。御留焼で、明治の直前まで私販を禁じた。仁清色絵。角内に「清」印銘。
 二代清治右衛門は、当主昌胤の旨で来城した狩野尚信が描いた「雲雀原の走馬図」を下絵とした駒絵を
始めたのが相馬焼の起源で、象嵌手法はこのときより始まる。
 当主誠胤の慶応三年(1867)、十一代清治右衛門は宮中より法橋号を賜り、「田代法橋」印を用いる。
●大堀相馬焼〔双葉郡浪江大堀〕
 元禄三年(1690)当主昌胤のとき、大堀村の半谷休閑が創業、井手に良土を発見、茶碗を焼成して昌胤に
献上、主命によって御用窯とした。
 当主叙胤の宝永期に隆盛となり、藩の陶器役所を設置し、藩内需要と藩外交易を主に、日用雑器も製した。 

<会津藩>〔陸奥国−福島県〕
●会津焼〔大沼本郷村〕
 文禄ニ年(1593)、主君蒲生氏郷が城郭を修理した際、播磨国の瓦師三名を招き、小田村で屋根瓦を焼成
したのが会津地方の焼物の初めである。
 正保四年(1647)、当主保科松平正之は美濃国の水野左衛門成治を招き、焼物御用を命じ御用窯とする。
茶器は主に、高麗写、三島写抹茶茶碗、茄子・大海・小海茶入、水指・花生・茶瓶・煎茶茶碗などのほか、
多少の実用品を製した。磁器の作製は当主加藤明成の寛永十六年(1639)以降。最も中国風に近く、素地を
施さないのが特徴で、他家への贈答は正之の慶安期以後である。
 安永六年(1777)当主松平容頌は江戸の陶工佐藤平吉を招き、焼物師範役を命じた。寛政九年(1796)、
陸奥国大沼郡本郷村の平吉の子伊兵衛は、主命で関西・九州へ青華磁器修得に赴き、同十年帰国、翌年、
肥前国皿山風別窯の本郷焼を開窯。製造所は郡役所支配下で会津磁器を創始し、白磁焼成に成功した。
文化元年(1804)、製造所は町奉行西川深蔵の支配下とした。

<二本松藩>〔陸奥国−福島県〕
●二本松焼〔安達郡二本松〕
 安政期、主君丹羽長富の娯楽品として、山下春吉の創始するところとなり、手捏をもって特徴とし、
無釉炉器の茶器・花瓶・湯呑・徳利・菓子器を焼成した。その陶製品は伊勢国万古焼と酷似するため、
二本松万古・岩代万古とも称される。

<本庄藩>〔出羽国−秋田県〕
●深井窯〔平鹿郡福地村深井〕
 主君六郷政殷の安政期以後、同業家老付の陶工山形弥惣兵衛が、のちに抱え陶工として開窯した。
土焼物雑器で、皿・鉢・丼等を焼造。

<久保田藩>〔出羽国−秋田県〕
●白岩焼(白岩瀬戸)〔仙北郡白岩村〕
 主君佐竹義敦の明和八年(1771)、相馬家領大堀窯の陶工松本運七が浪人ののち、当地の陶工とともに
佐竹家の保護奨励の下に築窯した。天明二年(1782)まで御用窯とされたのち、民窯となった。

<笠間藩>〔常陸国−茨城県〕
●箱田焼(宍戸焼)〔茨城郡笠間〕
 創業は、天保期あるは嘉永・安政期の二説がある。当初はごく粗雑な土瓶・擂鉢等を焼造して同地内の
需要を満たすのみであったが、のち主家が奨励して発展の状況をみた。
 寛政年間当主牧野貞喜は城山麓に陶土を発見し、邸内で楽焼を試陶した。以後、保護奨励した。文久年間、
当主貞喜が当地の陶窯のうち六窯を仕法窯として振興を図った。慶応末年、大垣藩士田中友三郎が江戸で
陶器商を営んだ折り、所用があってこの地に赴き、粗製品の入手販売、さらに当主貞喜に資金を仰ぎ許可を
得て茶壺を製した。以来、笠間焼の名が誕生した。

<水戸藩>〔常陸国−茨城県〕
●後楽園焼(水戸焼)〔江戸小石川上屋敷〕
 主君徳川宗翰が宝暦期に京都の陶工吉左衛門長入を招き開窯させた御庭焼・楽焼風を焼成した。一説に、
水戸城内において焼成したものにもこの名があるともいうが、確証はない。
 「後楽園製」凸印、凸および凹印「後楽」、楕円内行書「後楽園遺法」凸押銘。当主斉脩の号は鼎山
(1796〜1815)で、手造りに「鼎山」押印、「丁亥仲秋鼎山画」書銘。
 当主斉昭(烈公)は天保期、紀州家の偕楽園焼に模して交趾写を陶製、上好みの品で御留焼のため、
後世に残る作品は少ない。
 斉昭の手造りは「景山」の書銘。
●小砂(こいさご)焼〔下野国那須郡大山田村小砂〕
 天保初年、水戸の主君斉昭が当地で陶土を発見、この陶土は家中の支配下におき、陶磁器業が開始された。
安政元年(1854)九月、主命によって大山田村の藤田半三郎・大金彦三郎が陶工斉藤栄三郎を招き、
小砂に築窯した。

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