津軽焼、津軽千代造窯(つがるちよぞうかま)の小山陽久(こやま
はるひさ)作、荒土灰かぶり酒盃です。
大きさは、直径7.5cmX高さ4.0cmで、共箱、栞付きです。共箱には、「平成10年正月吉日」とありますので、平成10年の初窯出しの作品だと思われます。
荒土の焼き締め
の作品で、小山さんは、色々な焼き物に挑戦されているということですが、自ら名付けた「生姜擂り皿」は、同様の手法で、明治期にも作られていたもので、このぐい呑みも、伝統的な津軽焼の手法の作品だと思います。
小山さんは、ブログをお持ちですので、その記事に、色々と面白いお話がありますが、「津軽千代造窯」の由来は、小山さんのおじいちゃんの千代造さんから取った名前だそうで、千代造じいちゃんは、焼き物のコレクターで、小山さんは、その影響を受けて、陶芸家になったということだそうです。
悪戸焼の擂り皿
上の写真は、1919年に廃窯になった悪戸焼の擂り皿
です。明治期に盛んに作られていたようですが、同様のものを、津軽千代造窯でも、作られています。(悪戸焼は、後述参照)
津軽千代造窯
津軽焼(つがるやき)は、青森県弘前市で焼かれる陶器で、元禄年間(1688年ー1703年)に、弘前藩内の陶磁器の自給自足ができないかと、津軽藩四代藩主津軽信政が、江戸の平清水三右衛門を招き、津軽でも陶磁器ができるかどうかを、三右衛門の収集した粘土等を使って、江戸の名工とうたわれた瀬戸助に焼いてもらった結果、充分に陶磁器の生産ができるとされ、江戸より窯師久兵衛らを招聘し、寺町と清水村に窯を築き、二十数年間にわたり藩の用度品を焼いたのが、始まりとされています。
1806年(文化三)には、湯口村の石岡林兵衛
が、羽後国十二所村(秋田県大館市十二所)から、陶工源七を招き、扇田に窯を築いて製陶を試みましたが不成功に終わり、その後、再び羽後国から陶工清兵衛、永之松を招いてようやく成功したといわれます。これが、悪戸焼(あくどやき)ですが、たった二年程で経営難に陥いりましたが、津軽藩主に認められ、その庇護を受けて製陶を続け、用命の茶器を焼成するかたわら、民窯の雑器を焼いていました。
しかし、明治に入り、江戸時代に藩の陶器を支えた窯場のほとんどは、他県の焼物に押され、大正末期までに、廃窯しています。
窯場のあった場所から、それぞれ、平清水焼、大沢焼、下川原焼、悪戸焼と呼ばれていましたが、これらを総称して、津軽焼とも言われます。その中で、9代藩主津軽寧親が発案し、津軽地方の玩具として、鳩笛などの玩具を作り続けている下川原焼(したかわらやき)のみが、現在まで存続しています。
鳩笛
現代の津軽焼は、昭和11年以降になって再興され、錦光陶苑など、10窯ほどが津軽焼を作っていますが、そのうち、5窯が、青森県から、伝統工芸品の指定を受けています。(「青森県ホームページ」参照)
主な商品は、茶器、花器、酒器、皿などですが、黒天目釉や木灰を材料とする土灰釉などの釉薬が醸しだす独特の色合いは、素朴さと芸術性とを兼ね備えた焼物となっています。また、りんご木灰利用のナマコ模様のうわぐすり
も、特徴的になっています。
★ 作家 プロフィール ★
小山 陽久 (こやま はるひさ)
1956年 弘前市に生まれる
1972年 仙台、堤焼四代目 針生 乾馬に師事
1982年 弘前市に独立、築窯
以後、毎年 青森県内を中心に、
札幌、仙台、横浜で個展
1999年 弘前大学非常勤講師
2002年 杜のギャラリー 陽久庵を開く
2008年 青森県伝統工芸士に認定
(記 : 2012年2月19日)
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