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青島秋果作・賤機焼の井戸茶碗

青島秋果(あおしま しゅうか)作・賤機焼(しずはたやき)の伊羅保釉井戸茶碗です。

賤機焼











 



大きさは、径:14cm、高さ:7cmほどの、伊羅保釉の井戸茶碗です。四方桟共箱、栞付きです。

賤機焼の焼き物は、中々市場に出てきませんでしたので、ようやくゲットすることが出来て、喜んでいます。

賤機焼(しずはたやき)は、静岡県静岡市柳町で焼かれている焼き物で、江戸初期、賤機山麓で、太田七郎右衛門によって創始されました。

徳川家康より、徳川家の御用窯として、朱印地と賤機焼の称号を貰い、数百年にわたって栄えるのですが、文政の終わりに、阿部川の洪水で窯場が流され、衰退の一途を辿ります。

明治に入り、太田萬治郎の手で再興されますが、かつての盛況は甦らず、県が郷土産業としての再興を考え、青島庄助氏(明治45年没)を招き、二代目の五郎氏が、常滑の技法を取り入れ、新しい焼き物を試み、三代目の秋果氏の時、地方色豊かな焼き物に生まれ変わり、四代目津一氏(2005年没)の後、五代目晴美氏が、今に継承しています。

鬼福江戸時代の賤機焼は、交跡焼(こうしやき)といって焼成温度が900度と低く、脆いために現存するものは少ないのですが、「鬼福」という意匠が残されています。

これには、家康が三方原合戦の折、太鼓を打ち、福は内、鬼は外と叫び、武田軍を追い払い勝利したことを祝って、太田七郎右衛門が外形は鬼瓦、内は福面を描いた七五三の三組の盃を献上した時に、賤機焼の称号が与えられたという逸話が残っています。

現在の賤機焼は、南蛮手という焼き方や、釉裏紅や辰砂といった銅を還元で焼き、紅色を出すやり方が特徴です。

 
       現在の賤機焼、「秋果陶房」は、静岡市葵区柳町にあります。

       
  「鬼福」も、こんなにいっぱいあります!              五代目青島晴美さん

賤機焼の情報は、限られていて、中々集まりませんでした。特に、青島秋果さんのプロフィールでは、生まれた年くらいしかわかりませんでした。ご存知の方がおられましたたら、情報をお寄せいただけたら幸いです。

★ 作家 プロフィール ★

 3代 青島 秋果 あおしま しゅうか

1912年(大正1年)生まれ
鉄分の多い赤土を用い、灰釉のどぶ掛け、流し掛けをした作品に特徴がある。
南蛮手の焼き締めも取り入れる。
                                                (記 : 2012年2月20日)

追記 :

賤機焼の「鬼福」を手に入れました。

鬼福





大きさは、14cmx12cm、高さ5cmで、「志づはた」の陶印が入っています。鬼福は、本来「盃」ですが、ちょっと大きめですね。小鉢としても使えそうですが、私は、本来の「盃」として、使いたいと思います。

この「鬼福」ですが、江戸時代から現在まで続いていますが、これには、エピソードがあります。

徳川家康が、1573年の三方原合戦において、武田信玄の率いる甲州勢に屈し、浜松城へ逃げ帰り、武田の大軍に城を囲まれ、家臣と別れの盃を交わした時、最後の一策を考えた家臣が、城内にあかあかとかがり火をたかせ、城門を押し開き太鼓を打ち鳴らし、「鬼は外、福は内」と叫ぶと、武田勢がこれを敵の策略と勘ちがいして囲みをとき、徳川方に思わぬ勝利を招きました。

太田七郎右衛門が、家康の無事と勝利を祝って、外形は鬼瓦の形に、内には福面を描いた七五三の三つ組の盃を献上し、家康を大いに喜ばせ、賤機焼の称号を与えられたといわれます。

鬼福は、江戸時代から続く、賤機焼の定番商品ですので、大切に継承したいと思っています。
                                               (追記 : 2012年9月4日)

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