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粟田焼の建水と茶碗

明治期と思われる粟田焼(あわたやき)の建水です。









大きさは、口径:13.4cm、高台径:5.5cm、高さ:4.5cmほどの建水ですが、窯印もなく、出品者の説明から粟田焼としていますが、自信があるわけではありません。

ただ、少し黄色味を帯びて、細かい「貫入」と呼ばれるひびの入った様なうわぐすりの生地に、あっさりした絵付けは、粟田焼の特徴を捉えていると思います。

粟田焼は、京焼の1つで、明治期には、京薩摩の手法を取り入れて、輸出の黄金期を迎えています。江戸期の粟田口焼には、粟田の印が押されていたそうですが、この作品は、窯印がありませんので、明治期の輸出用の汎用品ではないか?と思っています。

★ 粟田焼とは ★

粟田焼(あわたやき)は、京都府京都市洛東粟田地域で生産された陶器の総称で,元来は、粟田口焼 という名称でしたが,窯場が粟田一帯に拡大されたため粟田焼と呼ばれるようになりました。 

寛永元(1624)年、三条蹴上今道町に住む、瀬戸の陶工三文字屋九右衛門(さんもじやきゅうえもん)が、東山区東山五条付近で産出する、遊行土や左京区岡崎天王町および粟田口付近で産出する岡崎土を用いて、銹絵・染付陶器を生産したことが粟田口焼のはじまりで、江戸初期以降,青蓮院(しょうれんいん,東山区粟田口三条坊町)の保護のもと発展します。

明治3(1870)年には、近代の粟田焼を代表する、薩摩焼色絵の作風を取り入れた「京薩摩」の彩画法が開発され、以後、輸出の黄金時代を向かえますが、昭和二年の世界恐慌と二度の世界大戦で、産業としての粟田焼は、終わりをつげました。

戦後は、昭和45年に、三代目伊東陶山(いとうとうざん)、昭和59年に、楠部彌弌 (くすべやいち)の死去により粟田焼は途絶えてしまいました。

現在、唯一、蹴上の安田浩人氏が、途絶えてしまっていた粟田焼の復興に努められて、作陶されています。

同じ京焼でも、清水焼が磁器を主とするのに対し、粟田焼は陶器を主とし、黄味をおびた色の生地に絵付けが施されているものが多く、温かな生地に銹絵絵付・交趾絵独特の繊細な手法が特徴的です。

安田浩人さんの作品を紹介しておきます。洗練された京焼らしい風情ですね。



安田浩人さんは、昭和37年 京都・粟田に生まれ、おじいちゃんの代で途絶えた粟田焼の復興に取り組んでおられる方で、 京都で粟田焼の火を守る、唯一の職人さんとして、がんばっておられます。

                                               (記 : 2014年8月18日)
追記 :

蔭山錦光作、粟田焼色彩波千鳥茶碗です。















大きさは、口径:12cm、高さ:7cm、高台径:5cmほどで、共箱、栞付きです。

作者について調べてみましたが、よくわかりませんでしたが、栞にあります、「作者蔭山錦光氏は、粟田錦光山窯の絵付師で、粟田の色絵手法に精通す。」とありますので、大規模な輸出産業としての錦光山窯が途絶えた後、粟田焼を工人さんたちが伝承したものではないか?と思われます。

共箱の状態や栞の内容から、時代は、戦後の昭和と思われます。

粟田焼らしい作品だと思いますので、大切に使いたいと思っています。

最終更新日 : 2015年1月30日

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