家内から、「こりゃなんじゃ?」と言われそうな、加藤春鼎(二代目)作の 鼠志野 蓋置を入手しました。
加藤春鼎(春倫)(二代目)は、瀬戸焼の陶祖と言われる、藤四郎景正の子孫と言われ、十七世で江戸中期に
活躍した景元から九世春仙の三男が、分家して、加藤春鼎となり、父を継いで2代目となりました。
現在は、3代目(加藤孝)に継いでいます。(鼎窯
)
2代目の特徴は、強くインパクトのある作風で、この作品にも、充分に、強烈なインパクトを感じられます。
加藤春鼎(春倫)(二代目)
3代目が、内容のあるホームページを開設されていますので、詳しくは、そちらをご参照ください。
へんてこりんな印象を受ける作品ですが、共箱、共布、栞付きで、大切にされていたようですので、私も、
大切に愛用したいと考えています。
ここで、少し、瀬戸焼について、まとめておきたいと思います。
瀬戸焼(せとやき)は、愛知県瀬戸市とその周辺で生産される陶磁器の総称で、日本六古窯の一つです。
東日本で広く流通し、瀬戸物は陶磁器を指す一般名詞化しました。
瀬戸焼は、大きく、赤津焼と、瀬戸染付け焼に、分かれます。
赤津焼は、奈良時代(700年頃)に焼かれていた須恵器という土器にまで遡り、江戸時代初期に現在ある
伝統的技術・技法や名称が確立しました。桃山時代から江戸時代初期にかけて、志野、織部、黄瀬戸
(きぜと)、瀬戸黒、御深井(おふけ)等、各種釉薬(ゆうやく)の技法が確立されました。尾張徳川家の
御用窯として栄え、現在まで続いています。
志野 織部 黄瀬戸
瀬戸染付け焼は、19世紀の初めに、土地の人が九州から持ち帰った磁器の焼成技術と、絵の専門家から
指導を受けた中国風の柔らかで潤いのある絵を施す絵付技術が、お互いに影響し合って大きく発展し、
19世紀中頃には瀬戸染付焼の技術・技法が確立されました。その後も絵付け師の努力が重ねられ、
瀬戸の自然を写し描く瀬戸独自の染付技法が作り上げられました。
明治時代になると、染付磁器の生産はさらに充実し広がりを見せます。食器の他に花瓶、重箱、灯籠、
テーブル等の大型品が作られるようになりました。これらの製品は今日まで作り続けられています。
また、最近は、色々なものに、挑戦される方が増えて、3代目加藤春鼎は、引出黒を得意としています。
この茶碗、まだ、オークションでは、見たことがありませんが、魅力的ですね。
(記 : 2009年9月24日)