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紀州 和歌山の瑞芝焼(ずいしやき)・五代阪上瑞雲作 青瓷茶碗です。 五代阪上瑞雲作・青瓷茶碗ですが、瑞芝焼と言えば、瑞芝青瓷と呼ばれる透明感のある青緑色が、特色なのですが、この茶碗にも見られる、独特の貫入も見どころです。 これまで、瑞芝焼の作品とは、中々、ご縁がなかったのですが、ようやくお品を手に入れることが出来て、喜んでいます。 大きさは、高さ約8cm 口径14cm 高台径約5cmで、共箱、共布付きのお品です。 瑞芝焼(ずいしやき)は、和歌山県和歌山市で焼かれる陶器で、瑞芝の名は、藩主治宝が「芝の緑を思わせる青磁」といったことに由来します。 徳川御三家の紀州藩の、文化や芸術の振興に力を入れた第10代藩主、治宝(はるとみ)の時代(1789年〜1824年)に、偕楽園焼、南紀男山焼、瑞芝(ずいし)焼という3つの御用窯が存在しました。(いずれも、明治初期に廃窯) 瑞芝焼は、岡崎屋阪上重次郎(当時28才)が、寛政8年(1796)和歌山市畑屋敷新道町(旧鈴丸町)藻屑川のほとりで開窯しました。当初鈴丸焼と呼ばれ、享和元年(1801)滅法谷に窯を移して、滅法谷(めっぽうたに)焼とも呼ばれました。 享和元年(1801年)には、紀州徳川家十代藩主徳川治寶に、芝の緑色を表現した青磁を焼くように命じられ、京都の名工、青木目米(あおきもくべえ)の指導を受けながら大成したと言われています。 瑞芝焼 青磁周茂叔香合(せいじしゅうもしゅくこうごう) 江戸時代(19世紀) 縦4.6p 横4.7p 高4.3p しかし、明治維新により藩の庇護(ひご)を失うと衰退し、1874年 (明治7年)に三代目阪上重次郎の代に廃窯に追い込まれました。 その後、100年の時を経て、1973年、初代から五代目にあたる阪上瑞雲(節介(せつすけ)、1996年没)が、美濃焼の梅平窯で、2年間修行した後、和歌山・善明寺に窯を開き、瑞芝焼の復興を遂げました。 紀州藩時代の瑞芝青瓷が中心ですが、鈞窯の月白紅斑・紅紫釉、哥窯の米色青瓷、建窯の油滴、また銅釉による赤色系の桃花紅・宝石紅など、多様な種類の作品を制作しています。 現在は、五代目の娘婿の六代目阪上重次郎(勝美)さんに、継がれています。 六代目阪上重次郎さん(71才) 復興瑞芝焼は、江戸時代の瑞芝焼を、博物館の展示や、個人の所有者を訪ねて見せてもらったり、釉薬の調合や焼成方法は、試行錯誤を重ねた上、陶芸家・加藤唐九郎氏からもアドバイスを受け、かつての瑞芝焼に近い緑色を少しずつ出せるようになっていったそうです。 そういった意味では、私の茶碗は、五代目の作品でも初期のものかもしれませんね。 (記 : 2010年9月18日) 追記 : 五代 阪上 瑞雲 造 均窯 ぐい呑みを、手に入れました。 大きさは、径5.7cm 高5.5cmほどで、四方桟共箱付きです。 均窯釉の発色は、青と赤が同時に発色することがありますが、このぐい呑みは、還元焼成のみだったのでしょう、赤系統だけの発色となっています。 均窯(鈞窯、きんよう)は、中国、河南省禹県にあった窯( かま)で、禹県一帯は明初期、鈞州といったのでこの名があります。乳青色の釉(うわぐすり)をかけた青磁で、還元焼成により、紅紫色の発色をすることがあり、宋時代に名品が多くあります。 宋時代では、窯の中が酸化・還元が一定でなかったため、下のもののように青と赤が混在するものが多いようです。 鈞窯陶片(元時代) 現代のものでも、下のぐい呑みのように、一部に紅紫色が出てくるものもあります。 瑞芝焼は、青磁が基本ですので、窯の中で、酸化になる部分と、還元になる部分があって、青を発色したり、紅紫色を発色したりするのだと思います。 私のぐい呑みは、辰砂釉にも似ていて、間違えそうになりますが、瑞芝焼であるということが、均窯釉であることを現していると思います。末永く、大切にしたいと思っています。 (追記 : 2011年6月15日)
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