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エピソードと共に、その起源や、特徴を、ご紹介しています。意外な場所に、
意外な、お宝があるものです。画像と共に、うんちくも、お楽しみください。 

オールドノリタケの絵皿とボウル

オールドノリタケの「夕暮れの風車と帆かけ船の 湖畔 風景」プレート です。







大きさは、直径 約16.5cm、 高さ 約2cmで、製作年代は、バックスタンプ・裏側の裏印から、1910年(明治43年)頃〜1941年の間で、イギリスへの輸出用 に作られたものだと思われます。

「盛り上げ」や「金盛り」等の装飾はありませんが、夕日に沈む湖畔ののどかな風景が描かれていて、恐らく、そのまま飾られていたのだと思いますが、状態も良く、オールドノリタケらしい作品でしたので、購入しました。(「オールドノリタケとは 」参照)

この裏印は、通称「マルキ」印と呼ばれていて、1900年頃〜1910年頃の「初期マルキ」印、1908年頃〜1925年頃の「マルキ」印(イギリス登録)、そして、1910年頃〜1941年の「マルキ」印(日本登録)と、3種類が使われており、微妙にデザインが違っています。

    
       初期マルキ             マルキ(英国登録)          マルキ(日本登録)

マルキ」は、困難の「困」と言う文字を図案化したものだそうで、中心に描いた槍で困難を打ち破り、物事が円満に収まるよう角を丸にしたと言われています。明治〜大正時代の日本の国際的な立場が象徴されていますね。尚、この印は、その形から、「スパイダーマーク」とも言われています。

こちらは、オールドノリタケ薔薇柄ボウルです。







大きさは、最大径16p、高さ3.7pで、ふっくりとしたボウルで3か所に掴み用の取っ手がついています。
クラッシックな薔薇の絵柄で、万人受けのするボウルだと思います。

製作年代は、マロン色の「M−JAPAN」のバックスタンプは、アメリカへの輸出用に、1921年に商標登録された裏印ですので、このボウルは、1921年頃〜1941年頃に作られたものということになります。

バックスタンプの図案は、中央の「M」はモリムラの頭文字、森村家の家紋(下り藤)を逆にし、上り藤にしています。


オールドノリタケの製品には、100種類以上の裏印が使われていて、1つ、1つの印に理由があり、それで、製造年代を判定できるので、他の骨董品と違って、割合、初心者であっても、わかりやすいのが特徴です。

         
 「メープルリーフ」 1891年頃〜1915年頃       「ヤジロベー」 1911年頃〜1940年頃    
   (初期のアメリカへの輸出用)                   (国内向け)

明治時代は、戦争や軍事力増強によって、膨大な国費を使ってきました。その軍事費の多くは、外国からの借金で賄っており、日清・日露戦争で使われた軍艦のほとんどは、イギリス製でした。外国からの借金を返すためには、外貨を稼がなければなりませんよね。

そのため、日本各地の窯場からも、欧米人好みの焼き物が輸出されましたが、オールドノリタケもまた、当時の製品のほとんどが、海外への輸出品であり、外貨を稼ぐ、重要な産業だったということです。現代の、自動車産業のように・・・・・

オールドノリタケは、欧米で大変評判がよく、やがて「ノリタケチャイナ」の名で、世界中に知られるブランドへと成長していきました。よく売れたことから、相当量の製品を、欧米に輸出していたこともあり、特にアメリカには、多くのオールドノリタケが残っています。外貨に余裕ができた現在、100年の時を経て、それらを、日本人によって「里帰り」させているのが現状です。

★ 日本における西洋食器の歴史 ★

森村市左衛門日本における西洋磁器食器製造は、森村市左衛門と、大倉孫兵衛の2人のキーパーソンが中心となって、始まっています。

幕末期、御用商人だった森村市左衛門は、横浜で舶来品を仕入れて江戸の武家に売り歩いていましたが、その時に、大倉孫兵衛と出会い、お互い意気投合しました。

森村市左衛門は、明治9年(1876)、東京銀座に貿易商社「森村組」を創業、弟の豊(とよ)をニューヨークに送って輸入雑貨店「モリムラブラザーズ」を開き、日本の骨董品や陶磁器、漆器、人形、根付などを扱って、本格的な海外貿易を開始しました。

折しも、1889年(明治22年)に、パリ万博が開かれ、日本製の陶磁器が高く評価された一方、ヨーロッパの純白の質の高い陶磁器も出品され、森村市左衛門は、これに深く傾倒し、自社での陶磁器生産に傾注するに至りました。

そして、明治37年(1904)、ノリタケカンパニーの前身となる「日本陶器合名会社」を創立し、愛知県鷹場村大字則武(現 名古屋市西区則武新町)の地に、近代的な設備を備えた大工場を建設しました。

これが、日本における西洋食器製造のはじまりですが、当初は、苦難続きで、やっと10年後の大正3年(1914)に、ようやく、日本初のディナーセットを完成させ、アメリカへ輸出するようになりました。

大倉孫兵衛 1919年には、大倉孫兵衛、和親父子が中心となって、当時の東京市外六郷村および矢口村(現在の蒲田)に、(株)大倉陶園が創業され、受注生産だけによる高級食器のみを扱う会社が出来ています。

日本陶器が製造した食器は、米国やオーストラリア、ヨーロッパへ輸出され、大変な売れ行きで、やがて「ノリタケチャイナ」の名で世界中に知られるブランドへと成長していきました。

一方、大倉陶園の磁器は、設立の主旨(良きが上にも良き物を作りて)にそって、一貫して美術的価値の高い磁器を作り、「セーブルのブルー、オークラのホワイト」という言葉で賞賛されましたが、初期の頃はオーダーメードの食器がそのほとんどを占めていたため、一般の人の目に触れる機会は少なかったようです。

日本陶器は、1932年に、ボーンチャイナ の研究・製造を開始し、日本初のボーンチャイナを製造、輸出しています。(「ボーン・チャイナとは 」参照)

戦後、名古屋製陶から、名古屋市緑区鳴海町にあったドイツ式陶磁器新工場を、住友金属が買収し、1950年に、鳴海製陶株式会社を設立し、当時極めて困難といわれたボーンチャイナを、日本で初めて量産化に成功させ、現在でも、ボーンチャイナのリーディングカンパニーとしての高い評価を受けています。

日本における代表的な西洋食器製造会社というと、このノリタケカンパニーの「ノリタケ」(1981年、日本陶器(株)を、(株)ノリタケカンパニーリミテドと社名変更しています。)、生産量第2位の鳴海製陶の「MARUMI」、高級食器の大倉陶園の3社ということになります。

 オールドノリタケとは? ★

オールドノリタケとは、日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)が、明治期から戦前までに欧米に輸出した陶磁器のことです。

これらが、20世紀後半から、約100年を経て、いわゆる「里帰り品」として逆輸入され、その高い技術と日本人独特の感性が高く評価されています。

 ボーンチャイナとは? ★

ボーンチャイナとは、磁器の種類のひとつで、牛の骨灰を混ぜた陶土で作られた、乳白色のなめらかさが特徴の焼き物です。ボーンとは、牛の骨灰の「骨」=「ボーン」を指し、チャイナとは、陶磁器のことです。

ボーンチャイナは、18世紀ごろにロンドンで発明されました。その当時のイギリスでは、中国磁器で多用されたカオリンを含む白色陶土が入手困難であり、代用品として牛の骨灰を陶土に混ぜて製作したため、ボーンチャイナと呼ばれるようになりました。
                                                 (記 : 2012年2月11日)

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