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壷屋焼(つぼややき)の湧田陶器製の小壷です。 小壷というよりは、「つまようじ入れ」というのが、適当でしょう。(笑) サイズは高さ約4.5cm・底の径が約2.5cmで、湧田弘の窯で焼かれたものと栞に、書いてあります。 この壷屋焼の出品者は、陶磁器関係の方ではなく、家に眠る不用品の処分のような感じでした。 そこで、不用品を買い上げて、有効利用できないか?ということで、たったの300円で落札しました。 しかし、私の目には、しっかりとしたものに見えましたし、壷屋焼の典型的なデザインで、魚の図柄(シーラカンス?)も、 人間国宝の金城次郎には、及びませんが、中々のものと思った次第です。 金城次郎 作 魚文刷毛目マカイ 茶碗 この小壷、実は、私の作戦は、象牙蓋を付ければ、りっぱな茶入れになるのでは?と睨んだわけです。 もちろん、象牙蓋は、この小壷よりは、高価ですが、「馬子にも衣装」になるのでは?と、もくろんでいます。 人気のない茶入れを見つけては、象牙蓋ゲット目的で、入札してみようと思っています。(笑) さて、沖縄の伝統工芸である、壷屋焼 について、少し、まとめておきましょう。(壷屋焼HP 参照) 1609年の薩摩による琉球侵略後、琉球王朝の尚貞王は産業振興の目的で薩摩から朝鮮人の陶工(一六、一官、三官)を招いて、湧田窯にて朝鮮式陶法の習得に力を入れ始めました。この時から上焼が焼かれるようになり、今日の壺屋焼の主流を占める、伝統技術の火が灯されました。 そして1682年に王府の手によって美里村知花窯(現・沖縄市)、首里宝口窯、那覇湧田窯が牧志村の南に統合され、現在の「壺屋焼」が誕生したのです。 壷屋の登り窯跡 壺屋焼の特徴は、その素朴さと力強さにあり、色使い、デザイン共に、異国情緒を感じられるものと、なって います。 また、壺屋焼には「上焼」(じょうやち)と呼ばれる朝鮮系の焼物と「荒焼」と呼ばれる南蛮系とに、大別されます。上焼は、施釉、荒焼は、無釉となっています。 沖縄には、本土には見られない珍しい陶器があります。 シーサー 沖縄では獅子のことをシーサーと呼称し、古くから屋根などに置き魔除けとして置かれていました。艮(東北)に向ければ暴風の災難を除き午(南)に向ければ火難の火伏せとなるといわれています。 その置き方は、開口が勇ましいことから「雄」、閉口が「雌」とされています。 抱瓶(タチビン) 抱瓶は中国や朝鮮の影響を受け沖縄で発達した携帯用酒器であり、形が三日月型の内側を手前にして左先端に注口、中央に口、外面両側に耳をこしらえ、その耳に紐を通して肩からつるして持ち歩けるようにしてあります。 呑んべいの私は、沖縄を訪れた時に、おみやげに買いました。 カラカラ カラカラは昔、沖縄の酒好きのお坊さんが酔うと徳利を倒しお酒を溢すことから倒れることない徳利をつくりたいのがはじまりで、備え餅をヒントに考案したのが現在のカラカラです。今でも沖縄の居酒屋では使用されています。(上記のお酒は、もちろん、泡盛です。) 沖縄には、沖縄独特の文化があります。私は、沖縄を2度訪れていますが、焼き物好きの私にしては珍しく、 どうも、壷屋焼は、しっくり来なかった為、お土産用の抱瓶を買っただけでした。 しかし、オークションで、上記の金城次郎 の茶碗を見て、壷屋焼の印象は、一転しました。 やはり、いいものには、力強さがありますね。 「南方の焼き物に、いいものはない」という、固定概念が、崩された瞬間でした。 (記 : 2009年9月24日) 追記 1: 同じような小壷が、オークションに出されました。 大きさも、ほとんど同じですが、こちらは、人間国宝の金城次郎作です。 うむむむむ・・・・・・・作者が、違うだけで、値段は、雲泥の差があります。私の小壷と、そこまでの差があるとは、思えないのですが・・・・・(笑) (追記: 2009年10月12日) 追記 2: この後、人間国宝の金城次郎の又甥の金城敏幸作 壷屋焼(つぼややき)の魚文ぐい呑みを買いました。 「壷屋焼の魚文ぐい呑み」を、ご参照ください。 (追記 : 2010年3月14日) 追記 3: 当ホームページに立ち寄られた方から、壷屋焼に関するメールをいただきました。 実業家で、書家でもあった、亡くなられたお父さんが、若かった頃の金城次郎さんから、かなりの数の作品を 買われたそうで、その内の、1つの作品を画像で送っていただきました。 見事な壷ですね。金城次郎独特の線彫りで、力強さが引き立っています。 ところで、壷屋焼の作品には、共箱がないものが多いのに、お気付きの方も、いらっしゃると思います。ですから、真贋を見分けるのが難しいのですが、今回、いただいたメールから、その理由の一端がわかるかと思いますので、メールの一部をご披露いたしたいと思います。 『これらの壺は、父が、昔、沖縄で事業をしていたころ、若かった金城次郎さんを助ける意味もあり、かなりの数購入したものの一部です。その後も、親交があったので、人間国宝になる前に、箱書や包むための布に、サインと落款をしてもらったものです。直筆の年賀状などもあります。 私も、御本人にサインしていただく場に同席したことがありますが、当時の金城次郎さんは、最近よく巷で見る箱書のような美しい文字を書く方ではありませんでした。書家であった父が、嫌がる金城さんをなだめすかして書いてもらったものです。当時私は中学生だったと思います。 多分、本物の大壺がこんなにそろっているのは見ることがないと思います。 機会があれば、是非お越しください。』 というメールで、金城次郎さんの大壷を何点か所有されているそうですので、機会があったら、一度、見せていただきたいものだと思っています。 そこで、「壷屋焼には、共箱付きが少ない」という点ですが、壷屋焼では、最近になるまで、共箱、共布を付ける習慣がなかったというのが、金城次郎、新垣栄三郎、小橋川永昌さん等の作家のものでも、共箱、共布があるものが少ない原因なのでは?と思っています。 沖縄が、本土に復帰したのが、1972年、壷屋焼が通産省の伝統的工芸品産業に指定されたのが、1976年、金城次郎が、人間国宝になったのが、1985年ですから、作家物に、共箱、共布が付けられるようになったのは、1970年代後半からなのでは?と、予想しています。 (追記 : 2010年5月9日) 追記 4: 金城次郎の長女の宮城須美子作の魚文ぐい呑みを手にいれました。「壺屋焼の魚文ぐい呑み」をご参照ください。 (追記 : 2010年11月23日)
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