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李朝青花の水滴

李朝・青花(染付け)、八面取り梅紋水滴(すいてき)です。

李朝青花水滴











大きさは、口からの径約8.1センチ、胴径約7.3センチ、高さ約5.4センチ、高台径約4.5センチです。

全体に貫入(かんにゅう)が、入っていますが、ガラス質の多い、やや青味掛かった釉薬の影響と思われ、焼き上がった時からのものと思います。

李朝青花らしい、柔らかなタッチで、梅紋を描き、その筆使いに、やさしさを感じる作品です。親指と人差し指、中指で作品を掴んで、釉薬の中に、どっぷりと漬け込んでいますので、指のあとが現れています。

また、砂の上に釉薬が乾き切っていないものを置いて、焼成したために、高台部分に、その時のひっつき防止の為の砂が付いたままの状態になっています。

時代は、釉薬が、青味掛かった透明釉ですので、恐らく、李朝後期のものと思われます。

八面に面取りされ、ドーナッツ型になっていて、珍しい作品だなと思い、購入しました。

朝鮮の骨董品は、初めてなので、今回は、本物保証のものを手に入れましたが、李朝文具、とりわけ、水滴は、数多く残っており、特に、李朝末期(幕末〜明治)の、濁った白色釉のものは多いようです。


★ 李氏朝鮮(李朝)時代の焼きものの歴史と特徴 ★

朝鮮高麗時代(918年〜1392年)の代表的な焼き物と言えば、11世紀頃にはじまり、12世紀前半に最盛期を迎えた高麗青磁になりますが、李朝(1392年〜1910年)に入って、儒教観による「白」へのあこがれから、李朝白磁が完成し、間もなく、染付けもはじまり、李朝青花と呼ばれています。


     高麗青磁象嵌 雲鶴文 碗 (12世紀中葉) (大阪市立東洋陶磁美術館蔵)

李朝白磁は、すでに高麗時代に出現していた白磁を、李朝時代に入って完成したものです。中国の元末・明初の白磁の影響を受けていて、深い釉調をもったみごとな白磁ができあがりました。

李朝前期(14世紀末〜16世紀)には、釉薬に鉄分が含まれず、雪のように白い純白磁が生まれました。器形には、深鉢、広口壺、皿などがあり、無文のものが多いのが特徴です。この時期の窯跡は、各地で認められています。

李朝後期(17世紀〜19世紀前半)、すなわち17世紀に入ると、白磁の釉色は青味がかり、さらに末期(19世紀後半〜1910年)に近づくにつれて、透明性を失い、濁った白色釉へと変化しています。 


                 李朝白磁面取壷(18〜19世紀頃)

一方の李朝青花(りちょう せいか)は、15世紀に入って、中国からコバルトを輸入したことにより、青花(染付)を焼造出来るようになりました。

初期の青花は、明初の作風を受け継ぎ、唐草文などを器面に描いた、きっちりとした作品が作られましたが、17世紀ころには、白地を多く残して秋草文や魚文、草花図、虎図などを、淡く細い線で描いた李朝青花を完成させました。

李朝青花は、中国の染付にはみられない優しさを感じさせ、質朴ながら無限の美を感じさせてくれるのが特徴です。


                  李朝 青花白磁 牡丹蝙蝠文瓶

その後、中国や日本では、色絵や色釉を使った、華やかなものへと展開していきましたが、李朝では、白にこだわり、基本的なモノトーンの焼きものに徹しています。

尚、私の手に入れた、水滴のような李朝文具は、李朝後期から末期にかけて特に多く作られ、そのほとんどは、分院窯で焼かれたものと考えられています。

李氏朝鮮は、儒教を国教として重んじ、第4代世宗の時代(1418年〜1450年)には、ハングル文字を作り出す等、学問に力を入れました。文具が発展した背景には、このような学問重視の国政方針があったようです。

                                                (記 : 2012年12月17日)
追記 :

★ 朝鮮半島(韓国)の焼きものの歴史 ★

朝鮮半島の焼きものの歴史は、日本と同様に、新石器時代の有文土器にはじまり、無文土器の時代を経て、新羅時代には、日本の須恵器の源流といわれる硬質の新羅土器が焼かれていました。

高麗時代(936年〜1392年)に入ると、中国の越州窯の影響を受けて、青磁が主流となり、12世紀中葉には、象嵌青磁(高麗青磁)の技術を開発しています。

その後、李氏朝鮮(李朝)(1392年〜1910年)に入ると、白土で化粧し、灰青釉をかけた粉青沙器(ブンジョンサギ)が、焼かれ始め、日本では、三島、刷毛目、粉引きと呼ばれて、唐津に伝えられています。

 武雄古唐津焼の花瓶(三島手)

(注 : 唐津焼は、戦前に一旦途切れますが、武雄市付近の、朝鮮陶工直伝の古唐津焼は、途切れることなく、継承しています。この作品は、佐賀県武雄市の小田志・規窯(こたじ ただしがま).、井上規(いのうえ ただし)作・三島唐津の花瓶です。(「武雄古唐津焼(規窯)」参照))

日本の茶人に愛好された井戸茶碗等の、高麗茶碗も、焼かれていましたが、李朝500年を通じて、最も多く焼かれたのは、白磁で、青花(染付け)と共に、京畿道広州にあった分院窯で多くが焼かれました。

朝鮮半島の焼きものは、高麗青磁、李朝白磁を中心に、輝かしい陶芸史を刻んでいましたが、豊臣秀吉の朝鮮出兵(1592年〜1598年)で、多くの陶工たちが、日本へ連行されて、大きな打撃を受けています。(日本各地の焼きものの多くは、この時連行された陶工の技術によるものです。)

また、李朝末期(幕末〜明治)には、清国からの侵略に頭を悩ませていましたが、日清戦争での、日本の勝利により、清国からの脅威が去ったと思ったら、今度は、日本に侵略されて、李朝は滅び、日本の統治期間(1910年〜1945年)の間に、朝鮮の焼きものは、壊滅状態になりました。

戦後、1960年代に入って、朝鮮陶磁を再興すべく、各地の大学で努力がなされ、ついに再現に成功し、現在では、100窯くらいで、高麗青磁や、李朝白磁・青花、三島、刷毛目、粉引き等の技術が再興されています。

尚、韓国といえば、「キムチ」ですよね。キムチを漬ける(かめ)は、重要な庶民の陶器です。こちらは、日本統治時代も、絶えることなく、全国、数百ヶ所の窯で、「叩き」の技を使って焼かれ続けられています。

この庶民の陶器の技が継続したことが、40年に渡る日本統治時代の断絶を克服して再興した、大きな要因であると考えられています。
                                            (追記 : 2012年12月18日)

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