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エピソードと共に、その起源や、特徴を、ご紹介しています。意外な場所に、
意外な、お宝があるものです。画像と共に、うんちくも、お楽しみください。 

山口県防府の堀越焼

堀越焼(ほりこしやき)の置水指仕立て江戸期)です。(私の所有品ではありません。)









大きさは、口径約16.0cm・胴径約23.0cm・高さ約25.0cmで、元々は、小壷として製作された品と思われますが、塗蓋を付けて置水指仕立てにした品と思われます。

オークションに出品されていたものですが、出品者は、堀越焼江戸期)と断言しています。あまり、お目に掛かることのない焼き物ですので、その根拠が何なのか?ちょっと疑問で、古丹波だと言われても、そうだなと思ってしまいます。ただ、お品は、大変いいものですね。

オークション終了10分前までは、私の入札価格が、最高値になっていたのですが・・・・・・それから、あっという間に、値が吊り上り、結局、16,000円で落札され、残念ながら、コレクションに加えることは、出来ませんでした。

堀越焼の古作は、市場にめったに出てこない為、どうしてもゲットしたい人には、値段は、厭わないのしょうね。

堀越焼は、私の地元に近いこともあって、無名な焼物ですが、興味がありましたので、少し、まとめてみました。

★ 堀越焼とは 

堀越焼[ほりこしやき]は、山口県防府市牟礼堀越地区で製造された焼物で、佐野焼をそのもととします。

天明八年(一七七八年)、佐波郡佐野村(現 防府市佐野)の住人内田善左ヱ門、此の土質陶器に適するを
以って、佐波郡牟礼村字堀越に一登窯を新築して業を創めたと言われています。

その後、一時衰退するも、善左ヱ門の弟子の林治衛門、宮本亀次郎が新窯を再興し、明治の初めには19軒の焼物師があり、最盛期には、38軒もの窯元が隆盛を極めたそうです。

堀越焼の製品には、蹴ロクロを使用した半胴がめ、雲助徳利、すり鉢などの荒物[あらもの]と、たこ壷や植木鉢などの小物がありました。製品は山口県内の他に、主に西日本各地に運ばれ、販売されていました。

     
             大甕                           雲助徳利

現在の堀越焼は、明治十五年安沢近蔵が、佐波郡牟礼村字末田(現 防府市大字江泊末田)に登窯を築窯し、業を創めた堀越窯 を、安澤秀浩さんが守られておられ、主にすり鉢・徳利・花瓶等の民芸品などを作られています。(「堀越窯 安沢秀浩」参照)

また、賀谷窯(かやかま)も、90年代のはじめまで、存在しましたが、後継者が亡くなり、途絶えています。

 堀越窯 安澤秀浩 作 来待釉黒釉花瓶

 
                               賀谷窯 賀谷初一さん(1992年没)

  

          賀谷窯 水甕                  賀谷窯 雲助(うんすけ)

堀越地区には、今日でもいくつもの窯跡が残り、昔、製造が盛んだったころの様子をしのばせてくれます。

  堀越地区の窯跡

私が、堀越焼で、おもしろいと思ったのは、この焼き物です。

  堀越焼の「野花立て」

この大砲の玉のような陶器は、お墓の前で土中に突き刺して使う、墓の花立てに使う物で、外村吉之助さんは、これを「野花立て」と命名しました。周防大島の墓地では、あちこちにこの野花立てが見られ、未だに使われています。

この焼き物は、徳山の戸田焼(へたやき)でも、同じような形のものを見たことがあります。瀬戸内地方の、
お墓には必需品だったのでしょうね。

こちらは、山口県立山口美術館に収蔵されている堀越焼の味噌壷です。



こうして、本物の数々を見ると、益々、今回の小壷は、古丹波に見えてくるのは、私だけでしょうか?(笑)

現在は、たった1軒の窯元が残るだけになっていますが、地理的にも近いので、一度、窯元を訪問して
みたいと思っています。
                                              (記 : 2010年1月17日)

佐野焼・末田焼 については、「ほうふWeb歴史館」から、引用させていただきました。

 防府市の地図

★ 佐野焼 ★

江戸時代、佐野地区では約70軒の焼物師が焼物にたずさわっていました。佐野焼は叩き[たたき]とよばれる独特の作り方で、荒物[あらもの]とよばれる大型の壷や、小間物[こまもの]とよばれる土鍋などを作っており、主に日常生活で使う陶器を作っていました。

佐野焼の生産が最も盛んになった大正時代には、120戸の農家が農業をしながら焼物を作っており、組合も作られていました。この組合では、他の土地の人を雇わないことや、佐野以外の場所で窯を開かないことなどを取り決めて、伝統的な作り方が他の土地に流れるのを防ぎました。

作られた製品は佐波川から船で県内外の市場に運ばれました。瀬戸内海沿岸や島根県西部、北九州一帯、
遠くは朝鮮半島にまで販売をひろげました。

しかし、戦後になると、焼物がプラスチックなどの製品にとってかわられるようになったために生産量が減少
して、窯も減っていきました。

★ 末田焼 ★

もともと、末田は奈良・平安時代に須恵器[すえき]を作っていたことで知られる窯業の盛んな地域でした。
その後、窯業は行われていませんでしたが、明治時代の中頃から、末田で土管の製造がはじまり、会社が
設立されました。

太平洋戦争の後は製造設備の近代化を進め、もっとも製造が盛んだった昭和30年代には、11件の業者が月に約12万本の土管を製造し、主に中国・四国・九州地方へ製品を出荷していました。

土管の製造は、1975年(昭和50年)前後まで続きましたが、土管が使われなくなったため、業者も製造をやめました。土管を製造していた業者はその後、れんがや瓦、ヒューム管を製造しています。

その後、昭和40年代後半になって、新しい焼き物を生産しようという気運が生まれ、土管から、生活雑器の生産に切り替えられました。末田焼には、末田窯業、春来窯、真山窯など、5つの窯があるようです。

追記 : 

堀越焼に関するおもしろい記事を発見しました。(「堀越焼のスリ鉢」参照)

その中で、「堀越は穏やかな瀬戸内海を見下ろす集落。隣には末田(すえだ)という集落があり、互いに100メートルも離れていないほど隣接しているのに、気質の違いか、融合せず「堀越焼」とは別称で「末田焼」と呼ばれる焼き物を制作していた。その頃、末田には「安澤窯業」という植木鉢を専門に焼く窯がわずか1軒のみあり、その窯の若い後継者が昔からの一人の職人とともに、錆釉薬を用いて、賀谷さんのような粗陶器の制作に取り組んでいたのを覚えている。」とあります。

この「安澤窯業の若い後継者」が、堀越窯安澤秀浩さんと、思われます。この記事では、末田焼の窯元となっていますが、「旅とやきものの本 」(旅のガイドムック・国内編22)では、堀越焼は、堀越窯と賀谷窯の2軒となっています。
                                             (追記 : 2010年1月18日)

追記 2:

2012年4月23日に、堀越焼、末田焼、佐野焼の里を訪れました。その際のお話を、「堀越・末田・佐野焼の里を訪問@」と、「堀越・末田・佐野焼の里を訪問A」にまとめましたので、こちらも、ご参照ください。

                                             (追記 : 2012年4月26日)

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