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田村雲渓作・多田焼のぐい呑み

多田焼(ただやき)雲渓山窯、初代田村雲渓(たむら うんけい)作の、ビードロ釉ぐい呑みです。

多田焼









大きさは、口径 7p 高さ 4.5cmほどのビードロ釉の掛かったぐい呑みで、共箱、共布、栞付きです。

多田焼は、下の作品のような、朝鮮青磁のような、「貫入」とよばれる青磁釉が特徴と言われていますので、ちょっと意外な釉でしたが、多田焼自体が、市場に出てくることが少ないので、ゲットしました。


                   典型的な多田焼の例

★ 多田焼(ただやき)とは ★

多田焼(ただやき)は、山口県岩国市美川町で焼かれてる焼き物で、元禄13年(1700)に当時の藩主が京都から陶工を招き、岩国市多田の住人に陶技を伝授させたのが始まりといわれ、岩国藩の藩窯として栄えた焼き物を、昭和になって復興したものです。

藩窯時代は、将軍家への献上品を作ることを第一義とし、茶碗・花生を主に焼いていました。その特徴は、「貫入」とよばれる青磁釉表面のヒビにあるといわれていますが、岩国における最初の陶窯、多田窯、その誕生には、政治的な要因がありました。

岩国藩主の吉川氏は、参府の折、諸侯への挨拶、土産物として、茶の湯の道具茶碗を贈り物としていました。この茶碗は、もっぱら萩藩の松本・深川の窯に頼っていましたが、元禄年間4代藩主“吉川 広紀”(きっかわ ひろのり)の急死から、両藩の仲が悪化して、萩の陶工を自由に使役する事が出来なくなり、萩焼が入手出来なくなりました。

そこで、需要を満たすため、京都から指導者を招いて、岩国城下・多田の地に初めて陶窯が開かれました。

元禄15年(1702)から宝暦年間(1750)までは順調に経過しましたが、明和(1765)になって作品の質が低下して来ました。理由は、初期からの職人がいなくなった事です。そこで努力して、ようやく復興の兆しを見ましたが、今度は窯が老朽化しました。

文化2年(1805)、窯を再築しましたが、技術が拙劣のため、文化6年(1809)、多田窯の歴史に終止符を打ちました。

廃窯していた多田焼ですが、岩国市多田の地に、昭和47年に、陶芸家田村雲溪の手により、多田焼の火が甦り、昭和56年に、美川町河山に登り窯を移転して、現在2代雲溪が窯を継承しています。

作品は、表面にひびを入れる「貫入(かんにゅう)」と呼ばれる多田焼特有の加工や、花をかたどった装飾をはり付ける「貼花(てんか)」など中国の技法を取り入れた茶器やつぼなどがあります。

多田焼は、岩國焼の別称ですが、「岩国焼のぐい呑み」でも取り上げていますが、山田象陶さんが、同時期に、岩國焼吉香窯として昭和48年開窯し、岩国焼の復興に力を注いでいます。

私のぐい呑みは、典型的な多田焼ではありませんが、多田焼自体を知りませんでしたので、大変、参考になりました。地理的にも近いので、一度、窯元を訪れてみたいと思っています。

★ 作家 プロフィール ★

 田村 雲渓 (たむら うんけい)

昭和 6年  山口県岩国市に生まれる。
昭和47年  岩国市多田に、多田焼を復興する。
昭和56年  美川町河山に登り窯を移転。 

 田村 雲洞 (2代 田村雲渓)

昭和29年  山口県岩国市に生まれる
        2代田村雲渓として多田焼を継承

                                                (記 : 2010年9月1日)
追記 :

2015年1月5日に、山口県岩国市美川町の雲渓山窯を訪問しました。その際に買った、2代田村雲渓作・青磁釉ぐい呑みです。



田村雲渓

その時の話を、「2代田村雲渓作・多田焼のぐい呑み」にまとめてありますので、ご参照ください。
                                             (追記 : 2015年1月10日)

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